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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――蜀・王平  戦場で育った武人



王平(おうへい)字は子均(しきん)
巴西郡宕渠県の人(?~248)

蜀の将。もともと母方の姓を用い何平(かへい)と名乗ったため「演義」でも何ヶ所かで何平と記される。
生真面目で冗談を好まず、一日中、席に座って職務に励むという武人らしからぬ様子で、しかし性格は偏狭で疑り深く、一方で軽はずみなところもあった、という何やら複雑な人物評が記されている。

曹操が漢中を制圧すると異民族とともに降伏した。王平も異民族の出身と考えられる。
だが定軍山の戦いのさなかに蜀に鞍替えした。

街亭の戦いでは山上に布陣しようとする馬謖(ばしょく)を再三にわたり諌めたが聞く耳を持たれず、山を包囲された馬謖が惨敗する中、街道を固めた王平を警戒して魏軍は兵を進められず、敗残兵を収容して撤退したため、蜀軍は全滅を免れた。
馬謖の副将はのきなみ処罰されたが王平は逆に昇進し、また戦場で生まれ育ち(異民族だとすればなおさらである)文字を10字も書けなかった王平が、兵法に通じた馬謖に勝ったことを人々は賞賛したという。
また文字は読めないが、史書を部下に音読させて学問を修め、的確な評を加えたとされる。

231年、祁山の戦いでは張郃の軍を撃退し、矢傷がもとで張郃は戦死した。
234年、諸葛亮が陣没すると蜀軍は撤退にかかったが、采配を振るう楊儀(ようぎ)とかねてから不仲の魏延(ぎえん)が反乱を起こした。
しかし魏延に従う者は少なく、さらに王平が「公(諸葛亮)の遺体がまだ冷たくならないうちになぜこのようなことをするのか」と一喝すると、残った部下も恥を知り魏延のもとを去ったため、たやすく討ち取られた。

その後の王平は漢中の軍事・行政を任され、244年に曹爽(そうそう)が10万の兵で攻め寄せると、3万足らずの兵で迎え撃ち大勝利した。
王平は同郷の句扶(こうふ)や歴戦の将の張翼(ちょうよく)・廖化(りょうか)と並び称された。

「演義」では定軍山の戦い後、漢中の地理に詳しいため徐晃の道案内を務めたが、敗戦の責任をなすりつけられそうになり蜀に寝返った。一連の徐晃は「演義」でも剛直な武人として描かれる彼のキャラから著しく外れ、きわめて不自然である。
その後は蜀の主力として活躍し、岑威(しんい)を一騎打ちで斬ったり、夏侯楙(かこうぼう)をたった数合で捕らえたりと、かなり武芸に優れた様子が描かれる。

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