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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――蜀・法正  悲運の天才



法正(ほうせい)字は孝直(こうちょく)
司隷扶風郡郿県の人(176~220)

21歳の時、飢饉を避け友人の孟達(もうたつ)とともに益州へ移り住み州牧の劉璋(りゅうしょう)に仕えたがあまり重用されなかった。
劉璋では大事を成すことはできないと考え、同じ不満を抱く孟達、張松(ちょうしょう)と共謀し、漢中の張魯(ちょうろ)や曹操の侵攻への対策として、荊州を治める劉備を招き入れた。

張松や劉備の軍師の龐統らの死もあったが214年、劉備は益州を制圧した。
法正は益州の人物たちを冷静に評価しており、本拠地の成都に迫られた劉璋が焦土作戦を採るのではという懸念を一笑に付し、降伏勧告を出して開城させた。
また包囲された成都から重臣の許靖(きょせい)が抜け出そうとして捕らえられ、劉備は不忠の人物だと処罰しようとしたが、法正は「許靖は高名であり彼を処罰したら名声が落ちるでしょう。彼の虚名を利用し逆に厚遇すべきです」と進言している。

法正は高位に上り、諸葛亮とともに政治の中枢に座るとともに軍師格となった。
諸葛亮とは性格が正反対だが、公私を区別し互いに認め合っていたといわれ、法正は地位を利用し昔の些細な恨みにもいちいち報復し、非難する者を何人も殺害していたが、諸葛亮はそれを大目に見ていたとされる。

217年、曹操が制圧した漢中の防備が薄いと分析し、攻略を進言し自ら遠征軍の采配を振るった。
ある時、本陣を襲われ矢が降り注いだが、劉備は忠告を無視して撤退せずに踏みとどまろうとした。すると法正は彼の前に立ち身を挺してかばった。劉備が下がれと命令すると法正は「主君が逃げないなら、私のようなつまらない者が逃げないのは当然のことです」と言い放ち、ようやく劉備は撤退を決断した。
219年、定軍山の戦いでは守将の夏侯淵の性情を見抜き、罠にはめて黄忠に討ち取らせた。劉備軍の策謀に曹操は驚き「劉備があのような策を思いつくわけがない。何者かの献策だ」と断じ、それが法正によるものだと知ると「有能な人材のほぼ全てを集めたのに、なぜ法正を手に入れられなかったのか」と悔やんだという。
法正の智略は援軍に現れた曹操をも退け、劉備は漢中を制圧したが、翌年に法正は病没した。
劉備は数日にわたり弔い、翼侯という諡号を贈った。これは劉備による唯一の諡号である。

222年、劉備が夷陵の戦いで大敗すると、諸葛亮は「法正が生きていればこんな無謀な遠征を止められただろう。もし止められなくても彼がついていればここまで大敗はしなかった」と嘆息したという。

陳寿は「判断力に優れ並外れた計略の持ち主だった。徳行は賞賛できないが、魏に当てはめれば程昱(ていいく)や郭嘉に比肩するだろう」と同じく品行方正ではないが卓抜した策謀を持つ二人に例えている。
「演義」では陰湿な報復は描かれず、優秀な軍師として漢中制圧に貢献。また諸葛亮に「法正が生きていればこんな無謀な遠征を止められただろう」と夷陵の戦いを前に言わせている。

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