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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――蜀・廖化  死んだはずだよお廖さん

  

廖化(りょうか)字は元倹(げんけん)
荊州襄陽郡中廬の人(??~264)

蜀の将。はじめは廖淳(りょうじゅん)と名乗った。
関羽が敗死した際に呉の捕虜となったのが初出で、劉備のもとに戻りたい一心で死亡説を流し、母を背負って逃亡した。
222年、関羽の仇討ちのため兵を挙げた劉備に合流し、そのまま夷陵の戦いに身を投じた。

その後は陰平太守となり、238年に魏を攻めた。
郭淮は王贇(おうひん)と游奕(ゆうえき)に兵を預け挟撃させたが、魏帝の曹叡(そうえい)は兵力の分散を不安視し、撤退して守勢に回るよう詔勅を下した。
はたして懸念はあたり、游奕は撃破され王贇は戦死した。

248年、姜維は羌族の治無戴(ちむさい)らと合流し、魏へ侵攻した。
郭淮は密かに一隊に河を渡らせると、廖化の背後を襲わせた。姜維は奇襲に驚き廖化の救援に向かい、そのまま敗軍を収容すると撤退した。
羌族の軍も郭淮に撃破されたが、治無戴ら一部の兵は益州に移り住んだ。

翌249年、姜維は再び北伐の兵を挙げた。郭淮に敗れたが、勝利に乗じて羌族の討伐に向かうのを見るや、転進して鄧艾の軍と対峙した。
姜維は廖化の兵に鄧艾を足止めさせ、その隙に背後に回ろうとしたが、鄧艾はそれを看破し素早く防戦についたため失敗した。

廖化は順調に昇進を重ね官位は張翼(ちょうよく)と同等に上った。人々は「前に王平(おうへい)・句扶(こうふ)あり、後に張翼・廖化あり」と讃えた。
またこの頃、諸葛亮の子・諸葛瞻(しょかつせん)が台頭し朝政に携わるようになると、廖化は宗預(そうよ)を誘いよしみを通じようとしたが、宗預は「70才を越えた我々が望むのは一日でも死を遅らせることだ。年少の輩に何を望み、せこせこ伺う必要があるのだ」と断ったという逸話が残る。

262年、姜維が北伐に乗り出そうとすると、廖化は「春秋左氏伝には『戦いをやめなければ必ず我が身を焼くことになる』とある。それは君のことだ。知略も力量も魏に劣っているのにどうやって勝つつもりだ。詩経にも『我より先んじず我より後れず』とある。これはまさに今日のことだ」と諌めた。
だが姜維は戦を敢行し鄧艾に敗れた。朝政を牛耳っていた宦官の黄皓(こうこう)はこれを好機と姜維から軍権を奪おうと考え、懇意の閻宇(えんう)を後任に据えようとし、諸葛瞻もそれに賛同した。
姜維は黄皓こそ除くべきだと劉禅に訴えたが聞き入れられず、それきり都へ戻ろうとはせず、兵を率いたまま前線に留まった。

263年、鄧艾・鍾会の大軍が蜀に侵攻すると、廖化は姜維・張翼とともに剣閣で迎え撃ち善戦したが、鄧艾が別働隊を率いて蜀の桟道を越え成都に迫り劉禅を降伏させてしまった。
その後、姜維・張翼は鍾会とともに反乱を起こし戦死したが、廖化はそれには参加しなかったのか劉禅らとともに洛陽に送られ、その途上で病死した。生没年は不明だが宗預との逸話から70代と思われる。

「演義」では登場が早く、官渡の戦いを前に曹操の下から劉備の側へ帰ろうとした関羽(いわゆる関羽千里行)に会う。元黄巾賊ながら義に厚く、関羽が保護していた劉備の妻子に狼藉を働こうとした杜遠(とえん)を成敗したものの「賊上がりは配下にできない」と無下に断られた。
だが劉備の益州入りの頃に普通に関羽に仕え、219年には麦城に孤立した彼を救うため城を脱出し、遠く成都にまで救援要請に走った。

その後は北伐でそこそこ活躍したが、ある戦で司馬懿を追い詰めるも、逃げ道と逆方向に落とした兜に騙されて見失ってしまい、諸葛亮を「関羽ならそれを見抜いて司馬懿を捕らえただろう。将が小粒になってしまった」と嘆かせた。
以降は史実と同様の事績だが、184年の黄巾の乱に参戦した設定を付けられたせいで、15歳で参加していたとしても263年に没した時に94歳の超高齢になってしまう現象が生じた。

「横山三国志」では関羽千里行には登場しなかったが、初登場の樊城の戦いで「演義」オリジナル武将の翟元(てきげん)を一騎打ちで討ち取り、大将首を一つ増やした。(翟元は「演義」では関平に、「吉川三国志」では廖化の配下に斬られている)
蜀の末期にも健在だが、白髪になった張翼が描かれる一方で廖化はただ「合流した」と記されるだけで、老将の姿は描かれなかった。

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