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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―晋・陳騫  陳矯の軍人気質の次男

陳騫(ちんけん)字は休淵(きゅうえん)
徐州広陵郡東陽の人(201~281)

魏・晋の臣。
陳矯(ちんきょう)の次男。

若い頃から胆力に優れた。父が曹叡(そうえい)の代に干された時、兄の陳本(ちんほん)はただうろたえたが、陳騫は「帝は聡明で、あなたは既に大臣です。ただ三公になれないだけです」と父を励ました。はたして曹叡はすぐに考えを改め陳矯を重用した。
また兄と夏侯玄(かこうげん)が宴会しているところに同席しようとして夏侯玄に叱責されたが、全く動揺しなかったためかえって評価されたという。

しかしなかなか昇進できず、司馬師の代には兄は国政に携わったが、陳騫は尚書の地位に留まっていた。
文学を愛好した曹髦(そうぼう)の代には、詩が作れずあやうく免職されかかった。
司馬昭の代になるとようやく日の目を浴び、軍事の才覚を見せた。
258年、諸葛誕の反乱鎮圧に功あり、都督として江南や荊州方面を任された。
264年、蜀が滅亡したが旧臣の羅憲(らけん)は魏へ降伏せず、侵攻してきた呉軍を相手に孤軍奮闘していた。救援を求められた陳騫は上奏して援軍を出し、呉軍を追い返した。
265年、晋の代になると車騎将軍に上り、都督揚州諸軍事として呉へ睨みを利かせた。
重臣の中でもその才は飛び抜けて高く、賈充(かじゅう)、石苞(せきほう)、裴秀(はいしゅう)らも敵わないと認めていた。

またこの頃、秦州刺史の胡烈(これつ)と涼州刺史の牽弘(けんこう)の資質に疑問を持ち、二人を交代するよう上奏したが、司馬炎は単純に二人の仲の悪さを危ぶんでいるのだろうと捉え、進言を重んじなかった。だが間もなく鮮卑の反乱により両名とも戦死してしまい、陳騫の言葉を真剣に検討しなかったことを悔やんだ。

また司馬昭の代に唐彬(とうひん)の資質を問われた時、孔顒(こうぎょう)は唐彬の才能を恐れて無言を通したが、陳騫は「私も全く敵いません」と答えた。すると司馬昭は「陳騫ほどの人材はそう得られるものではない」と笑い、興味を持ち唐彬を召し出し、その才能に驚いたという。
陳騫の人物鑑定眼の確かさをうかがわせる2つの逸話である。

277年、老齢となり引退を願い出たが許可されなかったため、職務を投げ出して家に帰ったが、司馬炎は怒らず慰留し、ついに諦めて引退を認めた。
晩年は司馬炎へ横柄に接し、逆に皇太子は丁重に敬う態度をへつらいだと中傷されたり、子供の悪行を弟の陳稚(ちんち)に告発されたため、弟を流刑に処すよう上奏するなどしたため名声はいささか傷ついた。

281年、81歳で没した。太傅を追贈され、武公と諡された。

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