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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―晋・鄭沖  論語集解を著し三公をも超える

鄭沖(ていちゅう)字は文和(ぶんか)
司隸滎陽郡開封県の人(??~274)

魏・晋の臣。
「晋書」に列伝される。

清廉かつ穏やかで無欲な人柄で、経書や史書に親しみ諸子百家に広く通じた。家は貧しく名誉を求めなかったため、長らく招聘されなかった。

217年、太子となった曹丕は身分の低い者から人材を探し、鄭沖も抜擢された。実務には優れなかったが質素を重んじたため名声を高めた。(『晋書 鄭沖伝』)

侍中の盧毓(ろいく)が昇進する際、曹叡(そうえい)は自ら後任を選ばせた。盧毓は鄭沖を推挙したが曹叡は「鄭沖は知っている。聞いたこともない者を選べ」と言い、改めて孫邕(そんよう)と阮武(げんぶ)を推挙し、孫邕が選ばれた。(『盧毓伝』)

曹芳(そうほう)の代になると、曹爽(そうそう)に目を掛けられ従事中郎・散騎常侍・光禄勲と昇進した。
孫邕、曹羲(そうぎ)、荀顗(じゅんぎ)、何晏(かあん)らとともに「論語集解」を著した。
曹爽・曹羲・何晏が処刑された粛清からも逃れ、251年には司空に上った。(『晋書 鄭沖伝』)

254年、三代皇帝・曹芳(そうほう)の廃位を求める上奏に、司空・文陽亭侯として連名した。(『斉王紀』)

学問を好んだ曹髦(そうぼう)には鄭小同(ていしょうどう)とともに手ずから経書を教え褒美を下賜された。
256年、司徒に転任した。
260年、曹髦が決起に失敗して没すると、司馬昭・司馬孚(しばふ)・高柔(こうじゅう)とともに王礼で葬るよう上奏した。(『高貴郷公紀』)

同年に曹奐(そうかん)が即位すると太保に任じられ、三公の上に置かれ寿光侯に封ぜられた。
政務には携わらなかったが、重臣たちはまず鄭沖に相談してから事に臨んだ。

265年、司馬炎は晋への禅譲にあたり鄭沖に禅譲を告げる書を提出させた。
晋が興ると太傅に任じられ寿光公に進んだ。
その後、李憙(りき)と侯史光(こうしこう)は鄭沖・何曾(かそう)・荀顗らは老齢で重病であるとして罷免を上奏したが司馬炎は却下した。
鄭沖も自ら引退を申し出たが、270年に司馬炎は詔勅を下してまで認めなかった。

273年、再度引退を願い出ると、司馬炎は寿光公のまま家に帰し、参内は不要、太保・太傅と同列で、重大事があれば朝臣は鄭沖に相談せよ、という破格の待遇で引退を認めた。

翌年に鄭沖は没した。273年の詔勅から六十代と思われる。
司馬炎は喪に服し、太傅を追贈し成と諡した。
咸寧年間(275~279)に功臣12人の一人として廟に祀られた。
男子がなかったため甥の鄭徽(ていき)が後を継いだ。(『晋書 鄭沖伝』)

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