忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―晋・楊駿  頂点からの転落

楊駿(ようしゅん)字は文長(ぶんちょう)
司隷弘農郡華陰の人(??~291)

晋の臣。

一族の娘の楊艶(ようえん)が司馬炎の皇后に立てられたため、彼や弟の楊済(ようせい)、楊珧(ようちょう)も縁戚として厚遇された。

楊艶が没し、276年に娘の楊芷(ようし)が皇后に立てられ、280年の三国統一後に司馬炎が政治への興味を失うと、楊駿ら三兄弟は権勢をほしいままにし「天下三楊」と称された。
楊済・楊珧は武芸に優れ軍功も多かったが、楊駿は娘たちの七光に過ぎず、非難の的となり、まるで帝室の上に立つような権勢に、諸臣は大乱の予兆を感じた。

司馬炎は病に倒れると、楊駿と一族の有力者である司馬亮(しばりょう)に後を託そうと考えた。だが楊駿は司馬亮を忌み嫌い、都から遠ざけ許昌へ出そうとした。楊済は有能な司馬亮とは協力すべきであり、外へ出し兵権を持たせるのも危険だと考え、思いとどまるよう説得したが聞き入れられず、楊駿は娘の楊芷と結託して司馬炎の遺言を偽造し、全権を握るとともに司馬亮を追放した。
さらに誅殺も指示したが、内心で反対していた配下は追撃せず、司馬亮は無事に許昌へ逃げた。

二代皇帝の司馬衷(しばちゅう)は孫にあたり、もはや楊駿を止める者はなかった。人望が無いことを自覚していた楊駿は諸臣の爵位を引き上げ、協力者を厚遇するバラマキ政策をとった。古代からの制度や法令に詳しくない彼はたびたび過ちを犯し、たとえば司馬炎が没して1年経たないうちに改元してしまい、朝廷があわてて書き換えさせたこともあった。
あまりに厳格かつ横暴な政治は一族にさえ批判された。ただ讒言は好まず、無実の者を処刑することは無かったという。

291年、皇后の賈南風(かなんぷう)は自らが実権を握るため、密かに反対派や宦官と密議を凝らした。司馬亮にも協力を求めたが断られ、荊州都督で楚王の司馬瑋(しばい)と結託した。
楊駿はかねてから勇猛な司馬瑋を味方に引き入れたいが、うかつに朝廷に招けば反発し挙兵するかもしれないと考えていたものの、司馬瑋が自ら朝廷に上りたいと打診してきたため喜んだ。

ついに挙兵すると、暗愚な司馬衷は賈南風の言うがままに楊駿を討つ詔勅を下した。配下の者は南門を焼いて反乱軍を威嚇し、その間に皇太子を擁立するよう献策したが、楊駿は曹叡の築いた南門を焼くのを渋ったため、呆れた配下は次々と賈南風に降った。
楊駿の一族は捕縛され、処刑された。これに乗じた讒言で命を落とした者も多かった。楊済・楊珧の助命嘆願をする配下はいたが、楊駿をかばう者は無かった。皇太后の楊芷もいったん庶民に落とされた後に殺された。

その後は賈南風が実権を掌握し、西晋を滅亡させる八王の乱が始まる、その端緒となる事件であった。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R