忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―晋・司馬駿  司馬懿の麒麟児の六男

司馬駿(しばしゅん)字は子臧(しぞう)
司隸河内郡温県の人(232~286)

司馬懿の六男で、伏夫人(ふく)の子(四男)。

麒麟児で5~6歳で上奏し、経書を暗唱した。清潔かつ堅実な性格で、宗族の中で最も期待された。
景初年間(237~239)に平陽亭侯に封じられ、239年に曹芳(そうほう)が即位すると同い年(8歳)の司馬駿は散騎常侍侍講となった。
以降も順調に昇進を重ね、平南将軍・安南将軍と進み、264年には東牟侯・安東大将軍となった。
265年、晋に禅譲されると汝陰王・都督豫州諸軍事となった。(『晋書 司馬駿伝』)

268年、呉の丁奉は石苞(せきほう)が内通しているという偽報を流した。司馬炎はそれを信じ、密かに石苞の討伐を命じた。
その頃、石苞に招聘された孫鑠(そんしゃく)は許昌を通り、守将の司馬駿に挨拶した。司馬駿は同郷の彼を気に入り、巻き込まれないよう討伐の件を教えてやった。孫鑠の口から石苞に伝わり、石苞はただちに武装解除して謹慎し、二心がないことを訴え、司馬炎もようやく誤解に気づいた。
司馬駿は石苞に代わり都督揚州諸軍事に移り、丁奉を撃退した。(『晋書 石苞伝』)

その後、鎮西大将軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事に移った。
司馬駿は任地に威信と恩徳を施し、自ら労役に携わった。自身から兵卒まで私有地を十畝に限定し、私腹を肥やすことの無いよう詳細を上奏した。
司馬炎は詔勅を下し、司馬駿を見習い農事に励むよう各地に命じた。

270年、鮮卑の禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)は反乱し、秦州・涼州の刺史を相次いで討ち取った。
司馬駿はその討伐を命じられ、3千あまりの首級を挙げ征西大将軍に上り、開府を許された。
さらに文鴦(ぶんおう)らを率いて兵を進め、禿髪樹機能を降伏させた。扶風王に移り、280年には驃騎将軍に上った。

非常に母思いで、遠出する時や病気の時には身を案じて涙し、職務を部下に任せて母のもとへたびたび駆けつけた。
一族にも情は深く、司馬炎が弟の司馬攸(しばゆう)を都から放逐しようとすると、それに反対した。
だが司馬炎は聞く耳を持たず、司馬駿は憂慮から病を発し286年に没した。享年55。

大司馬・侍中を追贈され、かつて統治した西方では死を悼んで民衆は列をなし、墓碑を建てた。村々の長老たちは碑のそばを通りかかるたびに拝礼したという。
十人の子がいたが、そのほとんどが永嘉の乱で消息を絶った。(『晋書 司馬駿伝』)

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R