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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・魯粛  呉の行く末を示した戦略家



魯粛(ろしゅく)字は子敬(しけい)
徐州臨淮郡東城県の人(172~217)

~経歴~
呉の基盤を作り上げた戦略家。

実家は豪族で、家柄は良くなかったが膨大な財産を有していた。魯粛は家業を継がずに若者を集めては戦争の真似事をし、また貧しい人々に田畑を分け与えたため、人望は集めたが、故郷の古老らには「魯家に狂児が生まれた」と眉をひそめられた。
声望を聞いた周瑜が訪れると意気投合し、魯粛は家に二つあった米蔵の一つを即座に明け渡し、孫策に仕えることにした。
かねてから魯粛を招いていた袁術が追っ手を差し向けると、魯粛は「今が乱世だとわからないのか? 我々を追っても罰せられることはない。愚かなことをするな」と言い、盾を地面に突き立て、それに矢を突き刺して悠々と去った。
しかし祖母が亡くなったため故郷に戻り3年の喪に服しているうちに孫策が亡くなり、袁術も滅びた。魯粛は曹操の招きに応じようとしたが、周瑜に「孫権は広く賢者を求めており、彼のもとに行けば曹操に仕えるよりもあなたの才能を活かせるだろう」と説得され翻意した。孫権に引見すると、魯粛は「曹操の力は強大で、漢王室の再興は無理です。長江南部の荊州、益州をおさえ曹操と鼎立しましょう」と「天下二分の計」を唱え、孫権を感嘆させた。

だが208年、荊州を治める劉表(りゅうひょう)が死に、曹操は荊州の攻略に乗り出した。
魯粛は弔問を口実に荊州を訪れ、声望高い劉備に、劉表の勢力をまとめさせ曹操に対抗させようとしたが、劉表の跡を継いだ劉琮(りゅうそう)はあっさりと曹操に降伏してしまい、逃げ出した劉備も追撃されて大敗した。
魯粛はやむなく独断で劉備と同盟を結び、諸葛亮をともなって帰国したが、呉の重臣たちはすでに降伏論に傾いていた。
孫権が厠に立った隙に、魯粛はようやく話をする機会を得ると「私は家柄が高いから降伏しても曹操に重用されるが、あなたはそうはいかない。曹操と戦うしかない」と脅迫まがいの言葉で主戦論を唱えた。(なお魯粛は裕福なだけで家柄が高いとは言えず、先に降伏した劉が重職に留められていることから見て、もし降伏した場合は呉の旧臣たちへの懐柔策としても、孫権のほうが重用されるのは確実であり、魯粛の言葉は完全にハッタリである)
また諸葛亮も魯粛に口添えし、周瑜は「曹操軍は補給線が伸び切っており、水戦に不慣れで、疫病にも悩まされている」と勝算があると言ったため、ついに孫権は戦いを決意した。

呉軍は赤壁で曹操軍を大破し、一年あまりの攻防の末に江陵も奪取した。孫権は凱旋した魯粛を出迎え「私が自らあなたの下馬を手伝えば、その功績に報いたことになるだろうか」と問うた。
魯粛は首を振り「それでは不十分です。曹操を滅ぼして都を奪い返し、あなたが皇帝になった暁に、私を賢者として馬車で迎えた時、初めて報いたことになります」と言い、孫権は大笑いして喜んだ。

呉軍と劉備軍は共同して戦い、ついに荊州の全域を手中にした。周瑜は「天下二分の計」を実現すべく、益州の攻略にかかろうとしたが、病を得て急死してしまった。
周瑜なくしては「天下二分の計」は果たせないと察した魯粛は、代わりに益州を劉備に取らせることを考えた。
合肥に攻め込み曹操の目を東に向けさせ、その隙に劉備は益州を攻略した。
その一方で外交戦に尽力し、呉軍の協力なくして劉備の荊州支配は実現できなかったため、魯粛は「荊州はあくまで劉備に貸しているだけだ」と理屈をこね、荊州の返還を劉備に求めた。しかし劉備は劉表の子・劉琦(りゅうき)を荊州の後継者として擁立し、また民からも圧倒的な支持を得ていたため、容易に交渉は進まなかった。
一時は劉備、呉の両軍が対峙したが、魯粛と荊州を守る関羽が、刀一本を携え二人きりで話し合う「単刀赴会」を行うなどした結果、ようやく荊州の東部と南の一部を呉に割譲することで決着した。

217年、魯粛は病で没した。後継者となった呂蒙は2年後、曹操と結ぶ奇策で関羽を討ち、荊州を奪取するのであった。
その後、呉と蜀は、蜀の滅亡まで強固な同盟を結び、魏に対抗した。呉はその死後も魯粛の卓越した展望に基づき、常に戦略を練っていたのである。

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