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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・顧雍  呉を支えた月見草



顧雍(こよう)字は元歎(げんたん)
呉郡呉県の人(168~243)

~経歴~
呉の臣。陸氏、朱氏、張氏と共に呉の四姓と呼ばれる名門の出。
蔡邕(さいよう)のもとで学び、必ず大成すると見込まれて、同じ読みの雍の名をもらい、字には蔡邕も驚くという意味の歎を使った。
若くして孫権の目にとまり、重職を次々と歴任した。孫権が会稽の太守になったときは、孫権は任地に赴かず顧雍が実質的に太守として治めていた。孫権が呉王になると侯に封じられたが、寡黙であったため家族にすら告げず、妻子は他人からそのことを聞いてひどく驚いたという。
慎み深く無口で酒をたしなまず、孫権には「お前と飲むと酒がまずくなる。だが口を開けば必ず的を射たことを言う」と信頼された。
丞相の孫邵(そんしょう)が没すると誰もが張昭(ちょうしょう)が跡を継ぐと考えたが、孫権は顧雍を抜擢した。
地位を得ても顧雍の姿勢は変わらず、人を登用するときにはその能力が役職に適しているかだけを見て、私情を挟まなかった。さまざまな施策を上奏したが、用いられれば孫権の発案だと言い、しりぞけられれば決して他言しなかった。
呂壱(りょいつ)という奸臣が重用されたとき、顧雍は強く反対したため恨まれ、無実の罪で譴責された。だが呂壱が失脚し、顧雍が取調べを行うことになると、恨みを晴らすどころか穏やかな態度で公正に裁いた。
顧雍が病に倒れると、孫権は名医の趙泉(ちょうせん)に診察させ、のちに末子の顧済(こせい)を取り立てた。それを聞いた顧雍は「趙泉がもう助からないと診たてたから、息子を取り立ててくれたのだろう」と悲しんだ。76歳で大往生した。孫権は平服で弔問し、その死を悼んだ。

『演義』ではまったく目立たないのにいつの間にか丞相になっている謎の人物だが、史実でも目立たず出すぎず、呉の屋台骨となった大人物であった。

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