忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・顧譚  謝罪を拒み死す



顧譚(こたん)字は子黙(しもく)
呉の人(??~??)

呉の丞相・顧雍(こよう)の孫。
孤高な性格で人付き合いを嫌ったがある時、彼の上奏を聞いた孫権はただちに才能を見抜き、重用していた徐詳(じょしょう)にも勝ると讃え抜擢した。

20歳の頃に皇太子の孫登(そんとう)に仕え、諸葛恪(しょかつかく)、張休(ちょうきゅう)、陳表(ちんひょう)らと身分を超えた友人となり「四友」と呼ばれた。
陸機(りくき)は顧譚を「四友」の中で最も見識に優れていると評し、重臣の薛綜(せっそう)は選曹尚書に任命された時、まだ年若い顧譚にその役職を譲ろうとし、結局は引き受けたものの退く時には後任に顧譚を据えた。
実務能力に優れ、算木(計算機)を用いずに暗算で仕事をこなしていたという。
一方で孫権の酒宴に参加したおり、酒をたしなまない祖父の顧雍とは対照的に、痛飲して羽目を外したため祖父に叱責されたという逸話も伝わる。

241年、孫登が没すると遺言の中で用いるべき人材として推薦された。
だが孫登に代わり孫権の三男の孫和(そんか)が皇太子となった際、四男の孫覇(そんは)にも孫和と同等の処遇が与えられため、長幼の序をわきまえるべきと諫言したため、孫覇の恨みを買った。
折悪しく弟の顧承(こしょう)と友人の張休が、孫覇を支持する全寄(ぜんき)と対立すると、全寄は讒言により顧譚と張休を流刑に追い込んだ。
孫権は娘婿の全一族の意向を無視できず、張休の流刑はやむをえないが、顧譚を失うのは惜しいと考え、群臣の前で謝罪すれば赦免すると持ちかけた。
だが顧譚はそれを拒絶し、名指しこそしなかったものの讒言者を堂々と非難し、甘んじて刑を受けた。
全寄らは顧譚の態度は不敬罪にあたると死刑を訴えたが、孫権はそれを却下し流刑に留めたという。

顧承とともに交州に流され2年後、42歳で没した。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R