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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・陸抗  陸遜ジュニア



陸抗(りくこう)字は幼節(ようせつ)
出身地不明(226~274)

~経歴~
呉の重臣。陸遜の次男。母は孫策の娘。

20歳の時、父が亡くなり兄もすでに没していたため家督を継いだ。
陸遜は孫家の後継者争いに巻き込まれ、孫権の信頼を失った末に悶死しており、陸抗もまた疑念を向けられていた。
そこで孫権はかつて陸遜に与えられた20ヶ条にもわたる嫌疑について詰問した。陸抗はそれに対し一つ一つ筋道立てて申し開きしたため、ようやく孫権は疑念を解き、死の間際には「讒言におどらされ陸遜の信義を裏切ってしまった。君に対しても申し訳なく思う。どうか送りつけた詰問の書類は焼き捨て、人目に触れないようにしてくれ」と謝罪したという。

陸抗は父にも劣らぬ名将として次第に頭角を現した。
257年、魏の諸葛誕(しょかつたん)が反乱すると、その援軍として赴き、指揮をとる孫綝(そんちん)の横暴さから敗北を招いたが、陸抗の軍は多くの敵を打ち破った。
三代皇帝・孫休(そんきゅう)の代になると荊州西方の軍権のほとんどを与えられた。

263年、蜀が魏によって滅ぼされると、呉は援軍と称して陸抗に永安(かつて劉備が没した白帝城)を攻めさせた。
兵力差は圧倒的だったが、蜀の旧臣・羅憲(らけん)は孤立無援のなか半年にわたり防戦し、ついに司馬昭(しばしょう)の援軍が到着するまで持ちこたえた。

272年、西陵(かつての夷陵)を治める歩闡(ほせん 呉の重臣・歩隲(ほしつ)の子)が反乱した。
討伐を命じられた陸抗は、兵力でははるかに上回っていたが、西陵はかつて自身が改修しており、攻城戦は不利だとして、二重の陣を敷いて包囲戦を挑んだ。
突貫工事を強いられた諸将が力攻めすべきだと不平を唱えたため、一度だけ攻撃を許可したところ、大敗を喫してしまい、諸将はようやく包囲戦に納得した。
やがて晋の羊祜(ようこ)が背後の江陵を襲う気配を見せた。諸将は西陵をあきらめ江陵の守備に戻るべきだと主張したが、陸抗は「江陵はたやすく落ちない。万が一落ちたとしても、民意が高く維持することはできないだろう。だが西陵を奪われれば南方の武陵蛮や山越族が動き出しかねない。江陵を失っても西陵は落とさなければならない」と言った。
陸抗は江陵周辺の水路をせき止め、水で包囲することで江陵を守らせた。
羊祜がそれを逆用して水路で兵糧を輸送しだすと、陸抗はこれも諸将が反対したが迷わず堰を切って落とし、晋軍の船を流させた。これにより晋軍の補給は遅れがちとなった。
その後も激戦は続き、陸抗の強引な策略に嫌気がさしたのか反乱も相次いだが、ついに晋軍を退け、西陵も陥落させた。
反逆者の歩闡とその一族、側近は処刑したが、同調した数万の将兵は赦免した。
陸抗は大戦果を得たことはもちろん、それを全く誇らなかったことから声望を高めた。

陸抗と羊祜は先の戦いからお互いを認め合い、任地は隣り合っていたが、侵攻しないよう暗黙の了解を取り付けた。
病がちな陸抗のため羊祜は薬を贈り、周りの者は毒が入っていると危ぶんだが、陸抗は「羊祜がそんなつまらぬことをするはずがない」と構わず服用した。返礼で酒を贈ると、羊祜もそれを喜んで飲んだ。
二人は敵国同士でありながら奇妙な友情を結び、やがて親交が厚いことを表す「陸羊之交」という言葉が生まれた。

四代皇帝・孫皓(そんこう)は即位すると独裁をふるい、意に沿わないものを次々と殺した。
陸抗の族兄で補佐を務める陸凱(りくがい)がたびたび諫言したため、孫皓は殺害を目論んだが、陸抗の目を恐れて実行できず、陸凱、陸抗の死後にようやく陸凱の遺族を迫害したという。
陸抗もまたよく諫言をしたが、孫皓は聞く耳を持たず、陸抗の戦勝に気を良くして、かえって増長した。

274年、陸抗は没した。もはや呉を守る者はなく、わずか6年後に晋によって滅ぼされた。
跡を継いだ息子たちはあるいは呉の滅亡に際して戦死し、あるいは晋に降り文学者として名を馳せたが、やがて祖父・陸遜の運命をなぞるように晋の後継者争いに巻き込まれ、一族皆殺しとなり陸氏の血は絶えたという。

ちなみに「演義」では羊祜との交友を咎められ降格を受け、失意のうちに亡くなったとされるが、史実では詰問こそされたものの降格は受けていないし、孫皓もそれで呉の盾である陸抗を下ろすほど愚かではない。と思う。

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