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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―呉・陸凱  呉後期の忠臣

陸凱(りくがい)字は敬風(けいふう)
揚州呉郡呉の人(198~269)

呉の臣。
陸遜の一族で子の世代に当たるが、詳しい続柄は不明。

黄武年間(222~229)に各地の県令や太守を歴任した。軍中でも学問を欠かさず占術にも通じていた。
赤烏年間(238~251)に儋耳太守となり、聶友(じょうゆう)とともに反乱軍を討伐した。
250年、魏の王昶(おうちょう)が江陵に攻め込むと、苦戦する朱績(しゅせき)の救援に赴き魏軍を撤退させた。
255年に山越の陳毖(ちんひ)を討ち取り、魏に反旗を翻した諸葛誕への救援でも功を立て、孫休(そんきゅう)の代には仮節を与えられ豫州牧に昇進した。

孫皓(そんこう)の代には荊州牧となり、意に沿わない相手を思うままに処刑した孫皓でさえ、陸凱とその族弟の陸抗(りくこう)には手出しできず、陸凱も罰を恐れずたびたび諫言した。
孫皓は他人に直視されることを好まなかったが、それも陸凱にたしなめられたため、彼にだけは直視を許したという。

265年、魏が滅び晋の代になると、交州を奪われるなど弱体化していた呉は晋と和睦をしようと、司馬昭の弔問の使者を送った。
だが使者を務めた丁忠(ていちゅう)は帰国するや、隙をつき晋への侵攻を進言した。劉纂(りゅうさん)も賛同し孫皓も乗り気だったが、陸凱の反対により取りやめられた。

266年には左丞相に上り、丁奉とともに孫皓の廃立を企んだが、丁奉と不仲の留平(りゅうへい)の反対により断念した。
だが諫言の手は緩めず、孫皓が寵愛していた佞臣の何定(かてい)には面と向かって罵倒した。

269年、臨終の床につくと、孫皓に遺言を問われ、陸抗、張悌(ちょうてい)ら有能な忠臣の名を挙げて重用するよう言い、逆に何定らは遠ざけるよう最期まで諫言を貫いた。享年72。

20項目に渡る諫言の全文が残っているが歯に衣着せぬ物言いで、これを読めば孫皓が激怒し処罰したことは間違いなく、書いただけで上奏しなかったとも、遺言代わりに上奏したともされるが、真偽の程はわからない。

孫皓は後に陸抗も没すると、もはや恐れる者はいないと、陸凱の遺族を交州に追放し、積年の恨みに報いたという。

陳寿は潘濬(はんしゅん)とともに立伝し「大丈夫として最高の仕事を成し遂げた」と絶賛している。

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