忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・鍾離牧  少しばかりの稲のこと



鍾離牧(しょうりぼく)字は子幹(しかん)
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

呉の将。
家は代々続く漢の名家で、父や兄も名声高く、特に兄の鍾離駰(しょうりいん)は後に太守に上った顧邵(こしょう)と並び称されていた。
一方の鍾離牧は口下手でのろまな性格で低く見られていたが、兄だけは大器だと認めており、たびたび賞賛したものの誰も信じなかったという。

若い頃に永興へ移住し開墾に従事した。しかし収穫の時季になると土地の所有者を名乗る住民が現れた。鍾離牧は「荒れ地があったから耕したまでだ」と争いもせずに土地と収穫物を譲った。
後に不正が明らかとなりその自称所有者が処罰されそうになった時も弁護してやった。県長が「なぜ法に照らして処罰しないのか」と訊くと、鍾離牧は「少しばかりの稲のことで彼を殺すと言うなら、これ以上ここに留まるつもりはありません」と官を辞そうとした。
県長は鍾離牧を引き止めると、彼に免じてその住民も解放してやった。住民は反省し、横領した収穫物を返そうとしたが鍾離牧は門を閉ざしてそれも断ったため、住民はやむを得ず門前に収穫物を置いて去った。この一件で鍾離牧は一躍名を知られることとなった。

その後は軍事にも携わるようになり、特に反乱鎮圧で活躍した。
しかし231年、潘濬(はんしゅん)の武陵蛮の討伐に従った際には、呉の朝廷の決議により敵中深くに置き去りにされたため、朝廷に不信感を抱いた。
242年には太子の孫和(そんか)の腹心となった。後に二宮の変により孫和は失脚し腹心も軒並み政争で命を落としたが、鍾離牧はそれ以前に南海太守となり難を逃れた。任地ではそれまで悩まされ続けてきた反乱を鎮圧し、治績を賞賛されたが、病を得たため4年で官を辞した。

中央に戻り昇進を重ねたが、反乱が起こると討伐を命じられそのたびに功績を上げた。
263年、蜀が滅びると武陵蛮が再び不穏な動きを見せたため、朝廷は合議の末に鍾離牧に討伐軍を任せた。魏が武陵太守として郭純(かくじゅん)を派遣し反乱を扇動しようとするのを見て取ると、鍾離牧は諸将の慎重論を退けて電撃的に兵を進め、瞬く間に反乱を平定した。
ついに武功を見込まれ濡須督として対魏方面の最前線を任されるに至り、密かに魏への侵攻作戦を練っていたものの、かつて敵中に置き去りにされた不信感からそれを公にすることはなく、同郷の朱育(しゅいく)に複雑な心境を吐露したという。
官位は前将軍にまで上り、武陵太守も兼任したが、在官のまま病没した。家には少しの財産も残っておらず、故人の遺徳が偲ばれた。

陳寿は「慎み深く古人の先例を良く守った」と評している。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R