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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―呉・賀邵  孫皓に殺された賀斉の孫

賀邵(がしょう)字は興伯(こうはく)
揚州会稽郡山陰の人(227~275)

呉の臣。
賀景(がけい)の子で、賀斉(がせい)の孫にあたる。
「呉書」に列伝される。

孫休の代に散騎中常侍となり、呉郡太守を務めた。(『賀邵伝』)また駙馬都尉に任じられた。(『王蕃伝』)

孫皓の代になると、左典軍・中書令に昇進し太子太傅を兼ねた。
暴虐な孫皓を諫言し、重税や徴兵で疲弊した民が反乱しており、過去に学び徳を積み、行いを正さなければ国は滅亡すると上奏した。(※賀邵伝はほぼこの上奏だけで占められている)
暴君の孫皓には届かず、かねてから直言をはばからない賀邵や楼玄(ろうげん)を佞臣たちは煙たがっていたため、讒言し楼玄を流刑に、賀邵を免職に追いやった。

賀邵は後に復職したが、中風にかかり話せなくなったため辞職した。孫皓は仮病と思い、拷問に掛けさせたが、賀邵は話せず弁解できないまま275年、49歳で獄死した。

遺族は臨海郡に流され、先に没していた楼玄の遺族は殺された。
280年、呉が滅亡すると遺族は帰郷を許された。

子の賀循(がじゅん)は学問に長じ、東晋の建国に尽力し祭祀の制定を一手に引き受けたという。(『賀邵伝』)

269年、陸凱(りくがい)は遺言で「楼玄・賀邵らは国家の良き補佐となる者たち」と推薦した。(『陸凱伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で呉末期のまだ健全だった時代の政治を担った一人と記した。(『孫皓伝』)

薛瑩(せつえい)は「常に志高く、重要な職務を果たした」と言い、
胡沖(こちゅう)は楼玄・王蕃(おうはん)と並べ、甲乙つけ難いがあえて言えば楼玄が最も優れ、賀邵が次ぐと評した。
陳寿は以上の評を踏まえ「政治の乱れた時代に高位にあれば、非業の死を遂げたのは不思議ではない」と述べている。(『賀邵伝』)

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