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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・諸葛恪  はじめ神童あと……



諸葛恪(しょかつかく)字は元遜(げんそん)
出身地不明(203~253)

~経歴~
呉後期の重臣。諸葛瑾(しょかつきん)の長男。諸葛亮の甥。

次の話が幼少の頃の逸話としてよく知られている。
酒宴のさなか、孫権はロバを引き出させると、その額に「諸葛瑾」と書き、面長な彼をからかった。
すると不愉快に感じた諸葛恪が進み出て筆を借り、その下に「のロバ」と書き加えた。
機転に舌を巻いた孫権は、喜んでそのロバを諸葛瑾に与えたという。

このように若い頃から機知に富んでいたが、控えめな父や叔父とは真逆の性格で、思慮深さには欠け、また野心家でもあり、才能をひけらかし相手をやりこめるのを好んだ。
そのため諸葛瑾は「息子は頭が切れすぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、つぶすのもこの子だろう」と予見し、諸葛亮は陸遜にあてた手紙で「諸葛恪はいいかげんな性格だから兵糧の管理などは向かない」と注意し、陸遜もまた「その傍若無人な性格をどうにかしろ」とたしなめているほどである。

しかし早くから将来を嘱望され、皇太子・孫登(そんとう)の側近となり、諸葛恪ら四人は「四友」と呼ばれた。
234年、四友に数えられる陳表(ちんひょう)とともに山越の討伐を命じられた。諸葛恪はかねてから「3年あれば山越を破り4万の兵を得られる」と豪語しており、事実そのとおりになった。
そして魏との戦いでも功績をあげ、246年には大将軍の位に上った。

孫登が若くして没し、代わって孫和(そんか)が太子になると、弟の孫覇(そんは)との間で国を揺るがすほどの後継者争いがくり広げられた。
諸葛恪は孫和を支持し、長男の諸葛綽(しょかつしゃく)は孫覇を支持するなど家臣団は真っ二つに分かれて争ったが、孫権は結局、孫和を太子から廃し孫覇を自害させることで事態を収拾させた。
なお事件後、諸葛恪は諸葛綽を毒殺し責任をとっている。

251年、太子となった孫亮(そんりょう)はまだ8歳と幼かったため、諸葛恪は教育係を命じられた。
翌年には孫権が亡くなり、孫弘(そんこう)、孫峻(そんしゅん)に後事を託したが、諸葛恪との仲が険悪だった孫弘は、孫権の死を伏せて諸葛恪を暗殺しようと図った。
しかし諸葛恪はそれを察知すると逆に孫弘を殺し、呉の実権を握った。

252年、魏の諸葛誕(しょかつたん)は大軍を催して呉に攻め寄せた。
諸葛恪は自ら丁奉(ていほう)、留賛(りゅうさん)らを率いて迎え撃ち、丁奉の強襲によって大勝利を得た。その功により諸葛恪は呉の軍権を任され、丞相となった。
翌年、戦勝に酔う諸葛恪は周囲の反対を押しのけ、合肥新城を包囲させた。包囲は百日に及んだが、毌丘倹(かんきゅうけん)、文欽(ぶんきん)らは後に「建国以来これほどの苦難はなかった」と振り返るほどの決死の防戦の末に守り抜き、呉軍を撤退させた。

徳政令などを発布したことから民衆からの人気は高かったが、敗戦と独断専行から諸葛恪は諸将からの人望を失い、ついには孫峻によって暗殺された。
父が危惧したとおり一族は皆殺しとなり、諸葛恪の遺体はむしろにくるまれ、丘に投げ捨てられたという。
諸葛瑾の子孫が絶えることを惜しみ、諸葛亮の養子となっていた弟の子が呉に呼び戻されたが、それも早世してしまい、呉の諸葛家は断絶した。

孫権亡き後の呉は諸葛恪、孫峻、孫綝(そんちん)と当主以外の独裁者が相次いで国力を傾け、そして四代皇帝・孫皓(そんこう)が滅亡へと追いやるのだった。

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