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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―呉・胡綜  呉の文書を司る

胡綜(こそう)字は偉則(いそく)
豫州汝南郡固始の人(183~243)

呉の臣。
「呉書」に列伝される。

幼くして父を失い、母に連れられ江東に移った。196年、会稽太守の孫策に14歳で取り立てられ、孫権とともに学問を修めた。

200年、孫策が没すると孫権の側近として、江夏討伐で武功があり、孫権が車騎将軍に任じられると、是儀(しぎ)や徐詳(じょしょう)とともに政治の中枢を担った。
文章に優れた胡綜は呉の行政・外交文書のほとんど全てを起草した。
220年、孫権が呉王に任ぜられると三人は列侯された。

222年、劉備が兵を挙げると、兵が不足していたため孫権は胡綜に命じて徴兵させた。6千の兵が集まり「解煩」と名付け、左部を徐詳、右部を胡綜が指揮した。

223年、晋宗(しんそう)が魏へ寝返り、国境を荒らした。胡綜は賀斉(がせい)とともに小勢で奇襲を掛け、晋宗を生け捕りにした。この功により建武中郎将に任じられた。(『胡綜伝』)

227年、鄱陽で反乱した彭綺(ほうき)を、太守に任じられた周魴(しゅうほう)は胡綜と協力して討伐し、生け捕りにした。(『呉主伝』・『周魴伝』)

229年、孫権は帝位につくと黄龍と改元し、黄龍を描かせた旗を作らせ、それで全軍の指揮を執ることとし、胡綜にこの旗を歌う賦を作らせた。
蜀は即位を祝うとともに条約を確認し、その条文を胡綜が書き上げ、内容も表現も見事と評判を取った。(『胡綜伝』)

同年、皇太子になった孫登(そんとう)は胡綜に命じて「賓友目」を作らせ、側近を称賛した。(『孫登伝』)

建業に遷都すると徐詳とともに侍中となり、郷侯として左右領軍を兼務した。
この頃、魏の呉質(ごしつ)が不興を買っていると聞き、彼が呉に内通しているとする文書を胡綜が偽作した。
だが流布された時には呉質は都に戻っており、不発に終わった。

230年、魏の隠蕃(いんばん)が投降し、巧みな弁舌ですぐに孫権に気に入られた。
人物評を聞かれた胡綜は「誇大な構想は東方朔に、巧妙な詭弁は禰衡(でいこう)に似ていますが、才能はどちらにも及びません。ひとまずは膝下で小さな官職に就け様子を見ましょう」と答えた。
隠蕃はすぐに声望を集め、全琮(ぜんそう)ら重臣はこぞって交際を求めたが、後に魏の間者と発覚し誅殺された。

胡綜は偏将軍、左執法を兼任し訴訟を担当した。
233年、公孫淵(こうそんえん)への対処をめぐり孫権と張昭(ちょうしょう)が対立した際に仲裁した。感情的な争いにまで発展した両者が決裂しなかったのは胡綜の働きによるものである。(『孫登伝』・『胡綜伝』)

237年、呉では長官職にある者は父の喪に服すことを禁じられていたが、名目だけで守られず、しばしば職務に支障をきたした。孫権が対策を群臣に諮ると、胡綜は死罪と明記し、見せしめに誰か処刑すればいいと言った。その通りにすると禁令を破る者は途絶えた。(『呉主伝』・『胡綜伝』)

238年、当時は全琮が都督を務めたが、偏将軍の胡綜も詔勅を受け作戦立案に参画した。全琮は奇襲を考えたが、気位の高い朱桓(しゅかん)は指図を受けるのを嫌い、言い争いになった。
全琮は「陛下が胡綜に指揮を命じ、彼が考えたのだ」と弁解し、朱桓の怒りの矛先は胡綜に向いた。
朱桓は胡綜を殺そうとして呼び出したが、側近が事態を知らせて帰らせた。朱桓は激怒して側近と副官を殺し、気が狂ったと称して都に帰った。
孫権はこれまでの功績に免じて罪に問わなかった。(『朱桓伝』)

ちなみに胡綜も酒癖が悪く、酔うと杯で周囲の者を殴ったが、孫権は責めなかったという。

243年、61歳で没し、子の胡沖(こちゅう)が爵位を継いだ。(『胡綜伝』)

陸凱(りくがい)は遺言で「孫権の代には胡綜・薛綜(せっそう)が行政を担当し信任された」と評した。(『陸凱伝』)

陳寿は「是儀・徐詳・胡綜は国家経営に大きな業績を残し、家に例えるなら垂木である。胡綜は文才と実務の才を兼ね備えた」と評した。(『胡綜伝』)

なお「演義」には三人とも登場しない。

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