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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―呉・羊衜  人物鑑定の名手

羊衜(ようどう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

呉の臣。

225年、南中を制圧した諸葛亮は、同盟を結ぶ呉へ費禕(ひい)を送り経緯を報告させた。
諸葛恪(しょかつかく)と羊衜は舌戦を挑んだが屈服させることはできず、孫権は「君は必ず蜀の股肱の臣となるだろう」と絶賛した。(『費禕伝』)

229年、皇太子になった孫登(そんとう)の側近の諸葛恪、張休(ちょうきゅう)、顧譚(こたん)、陳表(ちんひょう)は「四友」と呼ばれ、謝景(しゃけい)、范慎(はんしん)、刁玄(ちょうげん)、羊衜ら賓客(補佐)も評判を取り、多士済々と讃えられた。
孫登は胡綜(こそう)に命じて「賓友目」を作らせ、彼等を称賛した。
しかし羊衜は一人ひとりの欠点を指摘した。そのため諸葛恪らから恨みを買ったが、後に四人とも身を誤り、人々は根拠があったのだと納得した。(『孫登伝』)

20歳で太子中庶子となった。
当時、隠蕃(いんばん)が声望を集め衛将軍の全琮(ぜんそう)らひとかどの人物はこぞって親交を求めた。だが羊衜と楊迪(ようてき)だけがそれを拒んだ。人々はいぶかしんだが、後に隠蕃は魏の間者と発覚し、その先見の明に感服した。(『孫休伝』・『孫登伝』)

庶民の李衡(りこう)は、人物鑑識に優れると評判の羊衜を訪ね「多事多難の世で、尚書を補佐し激務を担当する才がある」と評された。
当時、呂壱(りょいつ)が専権を振るって多くの重臣を陥れたが、誰も逆らえずにいた。羊衜は「李衡しか呂壱を追い詰められる者はいない」と抜擢し、李衡は呂壱の悪事と失策を調べ上げ、孫権へ数千言にわたり述べ立てた。孫権は恥じ入り、数ヶ月後に呂壱は誅殺された。(『孫休伝』)

238年、独立した公孫淵(こうそんえん)は司馬懿の討伐を受け、呉に救援を求めた。孫権がその使者を殺そうとすると、羊衜は「むしろ厚遇し、部隊を派遣するべきです。司馬懿が負ければ公孫淵に恩を着せられ、膠着すればその隙に後方を荒らせます」と反対した。
孫権は納得し部隊を派遣した。(『公孫度伝』)

239年、公孫淵の援護のため羊衜・鄭胄(ていちゅう)が使者として向かい、将軍の孫怡(そんい)が魏へ攻め込み、張持(ちょうじ)・高慮(こうりょ)を撃破し捕虜を得た。(『呉主伝』)

241年、孫登は病没し、遺言で「羊衜は弁が立ち、使者として独自の判断で外交をやり遂げられる」と評した。(『孫登伝』)

242年、孫権は三男の孫和(そんか)を太子に立てたが、四男の孫覇(そんは)にも目を掛け、二人に変わりない待遇を与えた。
そのため孫覇の側近は、太子になれる可能性があると考え、孫和と対立するようになり、兄弟の不仲を聞いた孫権は、交際を禁じた。
羊衜は「不仲であることを疑われ、国益にならない」と反対した。
結局、二人の争いは二宮の変へと発展し、呉の国力を大いに損ねた。(『孫覇伝』)

同年、鍾離牧(しょうりぼく)は南海太守に任じられた。
始興太守を務めていた羊衜は、滕胤(とういん)へ手紙を送り「鍾離牧のことはよく知らなかったが、南海に赴任し、威厳と恩恵が配下に行き渡り、知略と勇気が示されるのをこの目で見た。しかも行いは全く純粋で、古人の風格を備えている」と絶賛した。(『鍾離牧伝』)

羊衜は桂陽太守にまで上り、没した。(『孫登伝』)

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