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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・濮陽興  無能丞相



濮陽興(ぼくようこう)字は子元(しげん)
兗州陳留郡の人(??~264)

呉の丞相。
濮陽一族は戦乱を避けて江東に移り住み、陸遜の弟である陸瑁(りくぼう)に庇護されたという。
濮陽興は孫権に仕え若くして頭角を現し、やがて会稽太守に任命された。
冷遇されていた孫権の六男・孫休(そんきゅう)が会稽に移ると、濮陽興や張布(ちょうふ)と親密な仲となった。

258年、第三代皇帝となった孫休は、国を牛耳る孫綝(そんちん)を誅殺し実権を奪い返すと、濮陽興と張布を重職に抜擢した。
260年、厳密(げんみつ)は丹陽で大規模な干拓事業を行うため堤防を築きたいと上奏した。ほとんどの者が反対する中、濮陽興は成功すると主張したため工事が進められたが、莫大な費用を浪費しただけで完成せず、民衆の恨みを買った。

262年、孫休は濮陽興を丞相に据えると、張布とともに国政を委ね、自身は趣味の学問に没頭した。
権力を得た濮陽興と張布は専横をきわめ、重臣からの恨みも買った。

264年、孫休が没した。臨終の間際に幼い長男を後継者に指名していたが、同盟国の蜀が魏に滅ぼされ、交州が離反して間もない情勢に幼君を立てることを危ぶみ、濮陽興らは協議の末、万彧(ばんいく)の推薦する勇猛な孫皓(そんこう)を第四代皇帝に立てた。
だが孫皓は即位するや酒色にふけり、自分たちも冷遇され始めたため濮陽興はすぐに後悔し、廃位を考え出した。
万彧はそれを察すると孫皓に讒言し、濮陽興と張布は同年のうちに流刑となった。
そして移送中に二人とも殺害され、一族も連座で処刑された。

陳寿は「濮陽興は丞相でありながら国政をおろそかにし、張布の悪行に加担し、万彧の意見を聞き入れたのだから、処刑されたのは当然である」とばっさり斬り捨てている。

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