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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―呉・楼玄  孫皓の逆鱗に触れた人格者

楼玄(ろうげん)字は承先(しょうせん)
豫州沛郡蘄県の人(??~??)

呉の臣。
「呉書」に列伝される。

孫休の代に監農御史、孫皓の代に散騎中常侍となり、会稽太守を経て、大司農に就任した。
孫皓と万彧(ばんいく)は禁中の責任者となりうる人格者として楼玄を抜擢した。
威厳あり歯に衣着せぬ楼玄は適格だったが、暴君の孫皓の怒りに触れ、広州に流された。(『楼玄伝』)
同じく諫言をはばからず佞臣から煙たがられていた賀邵(がしょう)とともに讒言を受けたともいう。(『賀邵伝』)

華覈(かかく)が弁護したが火に油を注ぎ、楼玄は交州へと移住させられ、張奕(ちょうえき)の配下に付けられ、武功を立てるよう命じられた。
一方で張奕には楼玄の殺害が命じられていたが、立派な彼の言動を見るにつけ実行できず、先に張奕が病没してしまった。
遺品の中から自分の殺害命令を見つけた楼玄は驚き、張奕の心中を慮り自害した。

「江表伝」には次の異説が記される。
孫皓は張奕に命じて楼玄へ毒薬を届けさせようとしたが、立派な彼を慕い張奕は何も言えなかった。楼玄は心中を察すると自ら催促し、毒をあおいだ。

裴松之は「楼玄は命を惜しんで態度を変えはしない」と珍しく江表伝が道理に合うと裁定を下している。

子の楼拠(ろうきょ)も父とともに交州へ流され、到着後すぐに病没した。(『楼玄伝』)
275年、賀邵が殺害された際に、楼玄の子と孫も殺された。(『賀邵伝』)

同時代の人物からの評価が非常に高く、以下に列記する。

269年、陸凱(りくがい)は遺言で「楼玄・賀邵らは国家の良き補佐となる者たち」と推薦した。(『陸凱伝』)
陸抗(りくこう)は「当代第一級の人物」と配流を解くよう上奏した。(『陸抗伝』)
陸機(りくき)は「弁亡論」で呉末期のまだ健全だった時代の政治を担った一人と記した。(『孫皓伝』)

薛瑩(せつえい)は「節操があり、偏らせず才能を伸ばした」と言い、
胡沖(こちゅう)は賀邵・王蕃(おうはん)と並べ、甲乙つけ難いがあえて言えば楼玄が最も優れていたと評した。
陳寿は以上の評を踏まえ「政治の乱れた時代に高位にあれば、非業の死を遂げたのは不思議ではない」と述べている。(『楼玄伝』)

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