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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―呉・是儀  人生ノーミスクリア

是儀(しぎ)字は子羽(しう)
青州北海郡営陵の人(??~??)

呉の臣。

もともと姓は氏(し)だったが、仕えていた孔融(こうゆう)に「氏は民の上が欠けた字だ」とからかわれ、是に改めた。
その後、戦乱を避けて劉繇(りゅうよう)を頼り、劉繇が孫策に敗れると会稽に移り住んだ。(『是儀伝』)

200年、孫権に仕え、是儀は騎都尉に任じられ、胡綜(こそう)や徐詳(じょしょう)とともに政治の中枢を担った。(『是儀伝』・『胡綜伝』)

219年、呂蒙が関羽の背後をつく計画を立てた時、孫権は是儀に意見を求めた。全面的に賛成し、自らも討伐軍に加わり、首尾よく関羽を討ち取ると忠義校尉に任じられた。是儀は辞退したが、孫権は故事を引き、受けさせた。(『是儀伝』)

220年、孫権が呉王に任ぜられると胡綜・徐詳とともに列侯された。(『胡綜伝』)
是儀は裨将軍、侍中に加え兵も預けられようとしたが、軍事の才は無いと固辞して受けなかった。

黄武年間(222~229)、劉邵(りゅうしょう)のもとで魏の曹休(そうきゅう)をおびき寄せる計略を立てた。
228年、ついに周魴(しゅうほう)の偽装投降が成功し、曹休軍を大破した。(『是儀伝』・『周魴伝』)
この功により是儀は偏将軍に昇進し、朝廷で尚書の事務全般と、訴訟の一切を任され、さらに皇族・貴族の子弟の教育係も務めた。

229年、孫権は帝位につくと建業に遷都し、元の都の武昌を太子の孫登(そんとう)と是儀に任せた。
孫登は補佐に付けられた是儀を尊重し、何か事を起こす時には必ず意見を求めた。是儀は都郷侯に進んだ。(『是儀伝』)

232年、次男の孫慮(そんりょ)が没すると、孫権は悲しみの余り政務が執れなくなり、孫登は是儀とともに建業へ移り、政務を代行した。是儀は侍中・中執法に戻り官庁間の折衝や司法を担当した。(『是儀伝』・『孫登伝』)

呂壱(りょいつ)が孫権の寵愛をかさに着て専権を振るい、諸臣に濡れ衣を着せては投獄していた折、刁嘉(ちょうか)も誹謗中傷の罪をかぶせられた。
孫権は激怒し刁嘉を獄に下し、関係者に事情聴取した。誰もが呂壱の目を恐れて刁嘉が誹謗していたと偽ったが、是儀だけは聞いたことがないと正直に答えた。人々が是儀の身を案じると「いま私の首には刀が当たっています。なぜ刁嘉のために嘘をつき、自ら一族皆殺しの危機を招く必要がありましょうか。諸君が本当に刁嘉が誹謗しているのを見たなら、その経緯を答えることができるでしょう」と言い、意見を変えなかった。
孫権は是儀の態度を見て考え直し、刁嘉を釈放した。

234年、諸葛亮が没すると使者として蜀に赴き、同盟をさらに固めさせた。帰国後、是儀は尚書僕射を授けられた。

241年、孫登が33歳の若さで没すると、代わって三男の孫和(そんか)が皇太子に立てられたが、一方で弟の孫覇(そんは)も孫権に目を掛けられ、孫和と同等の処遇を与えられた。

是儀は孫覇の傅役を命じられたが、後継者争いが起こることを危ぶみ、孫覇は軍事の才があるのだから外に出し、長幼の区別を付けるべきだと訴えたが、孫権は聞き入れなかった。

是儀は事あるごとに人を引き立て、欠点をあげつらうことはなかった。意見を求められても中立を保つことに孫権が不満を持つと「主君が上におられ、臣はその下で職務に励むだけです。職務を十分に果たせないことだけを恐れており、愚かな意見を申し上げて主君の心を乱すつもりはありません」と答えた。

是儀は職務に当たること数十年、ただの一度の過ちも犯さず、81歳で没した。
呂壱でさえ、是儀には落ち度を見つけられず手出しできなかった。
孫権は「もし人々がみな是儀のようであれば刑法など無用なものなのだが」と賛嘆した。
是儀は蓄財に興味を持たず、金を得れば全て貧しい者に分け与え、粗末な衣服と食事で過ごした。
是儀の家の隣に大きな屋敷が建った時、孫権が誰の屋敷かと尋ねると、側近はその位置から「是儀の家でしょう」と答えた。
だが是儀の清貧ぶりを知っていた孫権は即座に間違いだと断じた。

またある時に孫権は是儀の家を訪ね、普段の食事を出させた。
あまりに粗末な食事を前に孫権は嘆息し、その場で俸禄の増額を命じ蓄財を勧めたが、是儀は特別の恩恵を与えられては心苦しいと重ねて辞退したという。

陳寿は「是儀・徐詳・胡綜は国家経営に大きな業績を残し、家に例えるなら垂木である。是儀は清潔で慎み深く、正しい道を守って質素だった」と評した。

なお「演義」には三人とも登場しない。(『是儀伝』)

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