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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・張休  讒言に斃れる



張休(ちょうきゅう)字は叔嗣(しゅくし)
呉の人(??~??)

呉の重臣・張昭(ちょうしょう)の次男。
皇太子の孫登(そんとう)に仕え、諸葛恪(しょかつかく)、顧譚(こたん)、陳表(ちんひょう)らと身分を超えた友人となり「四友」と呼ばれた。
父から「漢書」の講義を受けていたため、孫権に請われ孫登に「漢書」を教え、その発言が常に筋道だっており、孫登に敬意を払われたという。
また孫権の狩猟癖を諫言したところ、その文章が優れていたため、父の張昭に見せて褒め称えたとも伝わる。
なお父もまた軽装で狩りに出て虎に襲われた孫権を「野山で虎と交わるのは君主のやることではない」と痛烈に諌めた逸話があり、孫権はまるで反省していない。

236年、父が没すると、兄の張承(ちょうしょう)は自己の功績で別に爵位を得ていたため、張休が父の爵位を継いだ。
241年、孫登も没すると太子府を離れ、揚武将軍となり兵を指揮した。
同年、全琮(ぜんそう)の指揮下で、顧譚の弟の顧承(こしょう)とともに魏軍と戦い功を立てたが、論功行賞で全一族と対立した。
孫登の後に皇太子となった孫和(そんか)は弟の孫覇(そんは)と後継者争いをしており、全一族は孫覇を支持し、張休は姪が孫和の妃だったため孫和派と目されていた。

全琮は張休と顧承が不正を働いたと讒言し、顧譚までも巻き込み三人を流刑に追い込んだ。
さらに張休と不仲だった孫弘(そんこう)は重ねて讒訴し、ついに張休は自害を命じられた。享年41。

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