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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・孫皓  三国一の暴君



孫皓(そんこう)字は元宗(げんそう)
呉の最後の皇帝(242~284)

~経歴~
呉の四代皇帝。董卓をも上回る暴君。
父の孫和(そんか 孫権の三男)は皇太子だったが、姉の讒言によって廃され自殺を強いられた。母だけは「私まで死んだら誰が子供たちを育てるのか」と訴えたために生かされ、孫皓は女手一つで育てられた。長く冷遇されていたが孫休(そんきゅう 三代皇帝)には同情され地位を与えられた。
孫休が急死したころ、既に蜀は滅び交州は離反し、孫休の幼い子供に後を継がせるには不安な情勢だった。そのため重臣の万彧(ばんいく)が「孫策にも匹敵する」と推挙した孫皓が即位することとなった。孫皓の側近だった万は出世をもくろんで推挙したのだろうが、これが呉を滅亡させる引き金となった。
即位した孫皓はすぐさま、父の名誉回復を図った。七日の間に三度も祭礼を催し、父の墓を守るためだけに役職を作った。(孫権の墓でさえそんな扱いはされていない)また、自分の身内を次々と登用する裏で、邪魔になった前皇帝・孫休の妻や子供たちを殺した。
孫皓の暴走はエスカレートしていき、重臣を次々と殺していった。王蕃(おうばん)にいたっては孫皓自ら庭で斬り捨て、側近に狼の真似をさせ首を食わせたとも言われている。
建業から武昌へ遷都をしたが1年足らずで建業に都を戻すなど行き当たりばったりの政治に愛想を尽かし、重臣は次々と出奔。ついには弟や一族の反乱まで招き、国力はますます傾いていく。
また後宮には数千人の女性を入れ女あさりをやめなかった。こんな逸話もある。あるとき孫皓はかつて殺した張布(ちょうふ)の娘を招き「お前の父はどうした」とからかった。娘は気丈にも「悪人に殺されました」と答えたため孫皓は彼女を撲殺した。
ところが孫皓は美人だった彼女を思いだしては後悔し「張布に他に娘はいなかったか」探させた。姉が嫁いでいることが解るとすぐさま取り上げ、妃に迎えて溺愛した。孫皓は宮女たちに黄金のかんざしを付けさせ、女相撲を取らせたため、かんざしは次々と壊れた。黄金を求めるため国の予算を使い、それをいいことに職人たちも膨大な代金をふっかけたため、瞬く間に国庫は空になった。
その妃が亡くなると孫皓はひどく悲しみ盛大な葬式をあげた。あまりに盛大だったため人々は「孫皓が死んだ」と勘違いし、孫皓死去を信じた者が反乱を起こしたというから、もはやカオスである。
孫皓の暴君ぶりはお決まりの宮殿建設・あいつぐ出征・佞臣の台頭・顔剥ぎや車裂きなどの拷問・人気取りの大赦の連発・元号変更の連発とつづいていく。宮殿には川を流し気に入らない者がいると突き落として殺した。ついには自分を皇帝に据えてくれた万も理由をつけて殺害した。
この頃には予言を信じて単身で洛陽(晋の首都)に向かおうとして、配下に「もしこのまま進んで敵に会ったら、私も敵と一緒にあなたに刃を向けるでしょう」と脅迫されて洛陽行きを諦めるなど、もはや孫皓の精神状態すら危ぶまれる。
それでも呉は名将・陸抗(りくこう 陸遜の子)の奮闘で幾度となく晋の侵攻をはね返していた。しかし陸抗が何度も勝利を収めたため孫皓は「圧倒的ではないか我が軍は」と勘違いし、ますます暴虐を重ねたのだから皮肉である。
やがて陸抗が死去するともはや呉を守るものはなかった。晋の侵攻によって呉は滅亡。孫皓は許されたが、三国志を著した陳寿は「度を超した寛大な処置である。孫皓は体をバラバラにされて人々に詫びるべきだった」とまで述べている。

ちなみに孫皓と三国統一を果たした司馬炎(しばえん 晋の皇帝。司馬懿の孫)の間には奇妙な友情(?)が見える。
司馬炎は孫皓に「南の人は『お前』という言葉を入れた詩を作るのがうまいらしいな」と歌を作らせた。孫皓は「昔はお前と隣同士。今ではお前の家来だよ。お前に一献進ぜよう。お前の長寿を祝うため」と詠い、司馬炎を感心させた。まさに自虐ネタである。
また司馬炎は娘婿の王済(おうせい)と碁を打っているとき、孫皓に「どうして人の顔の皮を剥いだりしたのだね」と尋ねた。孫皓は王済が足を投げだしてだらしなく座っているのを見ながら「主君に対して無礼な者の顔を剥いだのです」と答え、王済を赤面させたという。
司馬炎に対するこの当意即妙の受け答え。なまじ頭の切れる馬鹿に権力を持たせるとどうなるか、いい例かも知れない。

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