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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・孫登  父への遺言



孫登(そんとう)字は子高(しこう)
出身地不明(209~241)

孫権の長男。
生母は不明だが身分が低かったため、孫権の側室の徐夫人(じょ)に育てられた。
出自の貧しさから当初は後継者の地位を危ぶまれたが、聡明で人望も高かったためやがて皇太子に指名された。

諸葛恪(しょかつかく)、張休(ちょうきゅう)、顧譚(こたん)、陳表(ちんひょう)ら名家の子弟を側近に迎え、車に同乗したり寝食をともにしたりと、身分の別け隔てなく付き合い彼らは「四友」と呼ばれた。
225年には周瑜の娘を妻に迎え、後に孫権が武昌から建業に遷都すると、孫登に武昌を任せ陸遜と是儀(しぎ)を補佐につけた。
孫登は是儀を尊重し、何か事を起こす時にはまず彼に意見を求めた。

232年、孫権に寵愛されていた弟の孫慮(そんりょ)が亡くなると、孫権は食事も喉を通らないほど嘆き悲しんだ。
孫登は父を慰めるとともに叱咤激励し、孫権の落ち込みぶりを見かね、武昌は陸遜がいれば心配ないとそのまま建業に留まった。
234年、孫権が合肥に遠征すると、孫登が留守を預かった。

人格者で知られ、その人となりを示す逸話が多くある。
皇太子に指名された時のこと、孫登はまず母を皇后に立て、その後に太子を立てるべきだと辞退した。
孫権が生母はすでに亡くなっているだろうといぶかると、孫登は育ての母の徐夫人が健在だと答えた。
孫権は嫉妬深い彼女を遠ざけていたが、息子の正論に思わず口ごもったという。

孫登は父と同じく狩猟を好んだが、農作物を荒らさないように慎重に道を選び、休息する時も人家を避けて迷惑をかけないよう努めた。
ある時、孫登のすぐそばを矢がかすめたことがあった。側近が近くで弓矢を持っていた者を捕らえ、すぐさま鞭打とうとしたが、孫登は冷静に矢を見比べ、無実を証明してやったという。

243年、33歳の若さで没した。
孫和(そんか)を皇太子に据えるよう求めるなど、父への慈愛と忠言にあふれた彼の遺言は「孫登伝」の実に1/3を占めている。
以下に遺言を簡単に紹介する。

「私は重病にかかり間もなく死ぬでしょう。生き長らえたとしても病身では国家のために何もできず、死ねば親不孝になることを考えると心がふさぎます。
しかし寿命は天によって決められており、古の賢者たちは必ずしも長命ではありませんでした。彼らよりも愚かな私が皇太子にまでなれたのに何を悲しむことがありましょう。
天下はいまだ乱れております。陛下(孫権)は私のことなどすぐに忘れ、食事をよく摂り天下を治めてください。
弟の孫和は徳深く聡明で皇太子にふさわしい人物です。諸葛恪ら私の四友は国家の役に立つでしょう。
近頃は軍役が多く民に負担を与えていますが、刑罰や税を軽くし、民をいたわることが逆に天下統一の近道になるでしょう。
論語に「鳥のまさに死せんとするとき、その鳴くや哀し、人のまさに死せんとするとき、その言やよし」と言います。
人が死に臨んで発する言葉に嘘偽りはありません。陛下が私の言葉を心のどこかに残していただければ、私は死んでも生きているのと変わりないのです」

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