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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・孫権  碧眼児



孫権(そんけん)字は仲謀(ちゅうぼう)
呉郡富春の人(182~252)

~経歴~
呉の三代当主。孫堅の子、孫策の弟。

碧眼紫髯で長身ながら脚が短く、あごが張って口が大きい魁偉な風貌だった。
幼少の頃に父を失い、袁術(えんじゅつ)の庇護を受けた。

兄の孫策が台頭すると、一族が少なかったこともあり若くして一門衆として重用された。
15歳で県令に任じられたが、まだ若い孫権は遊ぶ金欲しさでたびたび公費を使い込んでは、補佐役の周谷(しゅうこく)が帳簿をごまかしてやっていた。
それでも足りず、孫権は会計を預かっていた呂範(りょはん)にも小遣いを要求した。しかし呂範は「孫策様の許可なくしてはあげられません」と拒否し、孫権はそれを逆恨みした。
だが後に孫権が当主となると、周谷を遠ざけ呂範を重用したという。

また孫家の血のなせる業か、単独行を好み、太史慈と戦ったときには寡兵でいたところを狙われて、腹心の周泰が重傷を負ったり、狩りに出かけては虎に襲われて馬の鞍を傷つけられたりと、たびたび危難にあった。

酒癖も悪く、酒席で傍若無人な態度をとった虞翻(ぐほん)を斬り殺そうとして腹心に止められることもあった。
孫権は「俺が酒を三杯飲んでから処刑を命じても無効とする」と異例の発布をするほどだった。

だが長じてからは思慮深い、慎重な性格となり、兄の孫策が急死すると「人々をまとめて国を保つのはお前のほうが上だ」と19歳の若さで後を託された。
当主となってまずは江夏の攻略にかかり、父の仇・黄祖(こうそ)を激戦の末に討ち取ったが、間もなく曹操が大軍を催して攻め寄せてきた。重臣はそろって降伏を唱えたが、周瑜、魯粛(ろしゅく)らが勝算を数え上げると、孫権は掛けていた机の角を剣で切り落とし「これより降伏を唱えるものはこの机と同じになると思え」と戦いを決断した。(どうして孫堅といい孫策といいこの親子はいちいち芝居がかっているのだろうか)
周瑜の読み通り、赤壁で曹操軍を破った孫権は、(大半は老獪な劉備に奪われたものの)荊州まで版図を広げることに成功した。

周瑜が急死し、劉備の台頭する西への進路を断たれた孫権は自然、東へ目を向け合肥に出陣した。
だが大軍を率いて攻め寄せるも、合肥を守る張遼は陣形が整わないうちにわずかな兵で奇襲をかけ、孫権軍はさんざんに敗れた。しかも追撃を受け、孫権自身も張遼とすれ違い、橋を焼き払われ、馬で船から船へ飛び移り、凌統の決死の奮戦もありかろうじて逃げ切った始末であった。
その後も数十年にわたり合肥での攻防は続いたが、合肥の守備は固く、ついに攻略することはできなかった。

合肥での敗戦を受け、孫権は魏に降伏を申し入れた。赤壁の戦いの前にはあれだけ降伏か抗戦かで迷った孫権だが、この頃には一時の降伏など意にも介さない老獪さを身につけていた。
降伏とは言っても、魏軍にも長江を越えて支配圏を広げる余力はなく、休戦や和睦に近いもので、孫権は交州から得た貢ぎ物を贈り、見返りに軍馬や官位を得て力を蓄えた。

益州、漢中を得た劉備が勢いに乗り、関羽に北上を命じると、曹操は司馬懿らの献策で呉軍を動かし、関羽を挟撃させた。かねてから荊州攻略の策を練っていた呂蒙は、電撃戦で荊州を奪い、関羽を討ち取った。
劉備は自ら関羽の仇討ちに乗り出したが、陸遜が迎え撃ち、蜀軍の補給線が延びたところを焼き討ちし撃破した。
呉と蜀が争う隙をついて、曹丕は三方から呉を攻めさせたが、朱然(しゅぜん)、朱桓(しゅかん)ら若い将が奮戦し、いずれも退けてみせた。
劉備が死去すると、呉は蜀と再度同盟し、以降は蜀の滅亡まで固い結束を保った。
呉と魏の間では謀略戦が繰り返されたが、たがいに一歩も譲らず、版図を広げるには至らなかった。

229年、孫権は魏・蜀に対抗し皇帝を名乗った。
長く呉をよく治めていたが、老いには勝てなかったか、晩年には数々の大きな失策を犯した。
聡明だった嫡子の孫登(そんとう)が早逝し、3男の孫和(そんか)を代わりに太子に立てたが、4男の孫覇(そんは)を王とし、孫和と同等の扱いをしてしまった。
孫覇の姉・孫魯班(そんろはん)は、孫和の母を皇后にするまいとたびたび讒言していたため、孫和が太子となれば復讐されると恐れていたが、孫覇が太子に成り代わることもできると考え、多くの重臣を抱き込んで熾烈な後継者争いを始めた。
争いは呉の国を二分し、陸遜、吾粲(ごさん)ら多くの功臣が讒言であるいは処刑され、あるいは流罪となった。
「二宮の変」と呼ばれた醜い争いに孫権は孫和を廃嫡し、孫覇やその取り巻きに自害を命じて終止符を打ったが、それにより孫権の跡はまだ10歳の孫亮(そんりょう)が継ぐことになり、孫家当主の権力は一気に没落した。

さらに孫権は呂壱(りょいつ)という佞臣を信頼して権力を持たせ、多くの重臣を失脚させてしまった。のちに誤りに気づき呂壱を遠ざけたものの、すでに重臣たちの心は孫権から離れており、その死後は諸葛恪(しょかつかく)、孫峻(そんしゅん)、孫綝(そんちん)らが時の当主をないがしろにし、国力を傾ける遠因となった。

また当時は未発見だった台湾や日本を探すため兵を差し向け、その多くを失ったり、遠く遼東の公孫淵(こうそんえん)と通じようとして失敗したりと、外交戦略でも何度もつまずいた。

252年、孫権は群雄の中でも長寿を保ち、71歳で生涯を閉じた。
晩年は判断力の低下から多くの失策を重ねたが、若くして家を継ぎ、長年にわたり呉国を保ったその辣腕や、失策に終わったとはいえ、南方・東方への開拓を試みた広い視野は、三国時代の誰と比べても傑出していたと言えるだろう。

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