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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―呉・孫奮  孫権の不肖の五男

孫奮(そんふん)字は子揚(しよう)
揚州呉郡富春の人(??~270)

孫権の五男。
母は仲姫(ちゅうき)。

199年、袁術(えんじゅつ)の遺族は孫策の手に落ち、子の袁燿(えんよう)は呉に仕えた。その娘は孫奮に嫁いだ。(『袁術伝』)

252年、斉王に立てられた。
同年、弟の孫亮が2代皇帝に即位し、幼い彼に代わり諸葛恪(しょかつかく)が実権を握った。
諸葛恪は各地の要害に皇族が配置されているのを厭い、孫奮を武昌から豫章に移そうと考えた。
諸葛恪は手紙を送り、孫奮が配下に私的な警護をさせていること、側近を勝手に殺していること、傅役の呂岱(りょたい)の進言を無視し、華錡(かき)を捕縛し、楊融(ようゆう)を脅していることを、いつでも処罰できると脅して従わせた。
孫奮は荒れ狂い、ますます狩猟にふけるようになって官吏を苦しめた。

翌253年、諸葛恪が誅殺されると、政変に乗じて首都の建業へ進出しようとした。謝慈(しゃじ)に止められると殺害してしまい、とうとう地位を剥奪され庶民に落とされ、身柄を章安県に移された。(『孫奮伝』)

258年7月、孫亮は恩赦を出し、孫奮を章安侯に封じた。(『孫亮伝』・『孫奮伝』)

270年、4代皇帝の孫皓は寵愛する王氏(おう)を亡くし、悲しみのあまり政務を放り出し数ヶ月の間、表に出なかった。
やがて孫皓の死亡説が流れ、孫奮か、その従兄弟の孫奉(そんほう)が即位するという噂が流れた。(※「孫皓伝」では噂が流れたのは274年と記される)
豫章太守の張俊(ちょうしゅん)はそれを真に受け、孫奮の母の仲姫の墓を掃除し恩を売ろうとした。
孫皓は噂を知ると激怒し、孫奮とその5人の子と孫奉を処刑し、張俊を車裂きにした。(『孫策伝』・『孫奮伝』)

「江表伝」には異説が記される。
孫奮は都に召還され、長年にわたり監禁された。孫奮は子らが結婚を禁じられたまま30~40歳近くなってしまい、かくなる上は息子や娘同士で夫婦になり、子孫を残せるよう取り計らって欲しいと訴えた。
孫皓は聞き入れず自害を命じた。孫奮は重ねて「国政に携わるつもりはなく、ただ余生を送りたいだけです」と訴えたが、子らとともに服毒自殺させられた。

ただし裴松之は「孫奮はすぐに処刑され、子が30~40歳になるまで時間が経っているわけがない。孫皓の悪逆さを誇張するための創作である」と指摘している。

陳寿は「没落したのは自業自得だが、一家皆殺しはとばっちりである」と同情を寄せている。(『孫奮伝』)

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