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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・孫亮  呉の幼帝



孫亮(そんりょう)字は子明(しめい)
呉の人(243~260)

孫権の七男。
241年に長兄の孫登(そんとう)が没すると、すでに次兄の孫慮(そんりょ)も没していたため三兄の孫和(そんか)が皇太子となった。
姉の孫魯班(そんろはん)は、自分の生母を皇后にするため孫和やその母と争っており、孫和が即位すれば復讐をされると恐れた。
また孫権は四兄の孫覇(そんは)にも目を掛け、孫和と同等の待遇を与えていたため、孫魯班は孫覇が皇太子に成り代わることもできると考え、孫覇を擁立し孫和を讒言して回った。
こうして国内を二分する後継者争いが勃発し、多くの重臣が讒言により流刑や処刑の憂き目にあった。

250年、後に「二宮の変」と呼ばれる争いに、孫権は孫和の廃嫡と孫覇の死で決着をつけた。
そして残された五男~七男の中で最も寵愛していた孫亮を皇太子に指名した。なお孫魯班はこの時もうまく立ち回り、夫の一族の娘をあらかじめ孫亮に近づけ、妃に据えることに成功している。
翌年、孫亮の母の潘夫人(はん)は皇后になると、病床に伏した孫権に讒言を吹き込み、他の夫人を殺させ地盤を固めた。
さらに孫権の死後に自ら政務を取ろうと画策したが、傲慢な彼女は周囲に憎まれていたため、宮女に縊り殺されてしまった。

252年、孫権が没すると孫亮は10歳で第二代皇帝に即位した。
同年、魏は諸葛誕に命じ大軍で三方から攻め寄せたが、孫権に後事を託された丞相の諸葛恪(しょかつかく)が撃退した。
これにより自信を深めた諸葛恪は翌年に合肥新城を包囲したが、疫病により多くの兵を失い惨敗を喫した。
諸葛恪は孫亮が幼いのをいいことに専権を振るったため、253年10月に孫峻(そんしゅん)によって暗殺され、代わって孫峻が丞相となった。

孫峻は諸葛恪に成り代わっただけで、同じく孫亮をないがしろにし専横をきわめた。
255年、魏の毌丘倹と文欽(ぶんきん)が大規模な反乱を起こした。孫峻はこれを好機と自ら大軍を率いて出撃したが、毌丘倹は間もなく敗北し、文欽が敗残兵とともに呉へ亡命してきた。
翌年、文欽の献策により呂拠(りょきょ)、文欽、唐咨(とうし)らに魏を攻めさせたが、間もなく孫峻が急逝してしまった。

従弟の孫綝(そんちん)が権力を受け継ぎ、遠征軍に帰還を命じたが、呂拠は孫峻に輪をかけて傲慢な孫綝に不満を抱き、命令を無視した。
呂拠はかつて孫権が信任した滕胤(とういん)を丞相に推薦したが、孫綝はそれを拒否し、滕胤を前線に送り込んでしまった。
激怒した呂拠は遠征軍を率いて孫綝を討伐しようとしたが、孫綝は孫亮に詔書を出させ、呂拠を謀叛人として文欽と唐咨に誅殺を命じ、丁奉(ていほう)らの討伐軍を迎撃に向かわせた。
捕らえられた呂拠は自害し、滕胤も殺害された。

257年、15歳になった孫亮は自ら政務を執り始めた。
聡明かつ温厚な人柄に育ち、宦官の陰謀から役人を助けてやったり、甥の不始末をあくまで法に則り寛大に処置してやった逸話が伝わる。
同年5月、魏の諸葛誕が反乱を起こし、寿春に籠城するとともに呉へ臣従を申し出、救援を請うた。
孫綝は文欽、丁奉、唐咨、全端(ぜんたん)らに3万の兵を与え救援に向かわせ、さらに朱異(しゅい)に増援を命じ、自らも寿春に赴いた。
だが魏軍の防備を破れないことに激怒し、朱異を処刑。そして救援軍を放って都へ帰ってしまったため、孤立した全端は魏に降伏。
取り残された諸葛誕は疑心暗鬼に陥り文欽を殺害し、文欽の遺児の文鴦(ぶんおう)らが魏に亡命すると、魏軍を率いる司馬昭は文鴦を厚遇し「かつて魏を裏切った文欽の子ですら許される」と喧伝したため、諸葛誕の配下は次々と魏に寝返り、翌年に寿春は陥落した。

孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、姉の孫魯班らと図って暗殺計画を練った。
しかしこれは孫綝の知るところとなり、先手を打たれ協力者を一掃され、孫魯班は流刑、孫亮は廃位され会稽王に落とされた。
新たな皇帝には孫権の六男で孫亮の兄の孫休(そんきゅう)が据えられた。

孫休が孫綝の油断をつき誅殺し実権を奪い返すと、孫亮が帝位に返り咲くという噂が流れた。
さらに孫亮が孫休の呪殺を企んでいると告発されると、孫休は孫亮を侯に降格させ、侯官へ遠ざけた。
その途上、孫亮は自害した。享年18。孫休による毒殺説も根強い。

妻で皇后の全氏(ぜん)は孫亮の死後も侯官で暮らし、280年に呉が滅亡すると中央に戻り長寿を得たという。

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