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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・唐咨  魏と呉を渡り歩く



唐咨(とうし)字は不明
徐州利城郡の人(??~??)

魏と呉を行き来した流浪の将。
はじめは魏に仕えたが225年、利城郡の兵士の蔡方(さいほう)は太守を殺すと、唐咨を指導者に擁立した。
曹丕は徐州刺史の呂虔(りょけん)と青州刺史の王凌(おうりょう)に命じて討伐させ、敗れた唐咨は海路で呉へ亡命した。

呉では主に呂岱(りょたい)の下で反乱鎮圧に活躍した。
一方で董嗣(とうし)の反乱の際には吾粲(ごさん)とともに兵3千で攻撃したものの、数ヶ月掛かっても鎮圧できず、かつて曹休(そうきゅう)を偽装投降で撃破した周魴(しゅうほう)が代役に立てられると、董嗣を暗殺し瞬く間に鎮圧した、という逸話も残る。

反乱鎮圧だけではなく252年には諸葛恪(しょかつかく)に従い魏の諸葛誕を迎え撃ち、丁奉、朱異(しゅい)らとともに挟撃し大勝利を収めた。
それらの軍功により列侯され、地位は左将軍に上り持節(指揮官)を任された。

256年、丞相の孫峻(そんしゅん)は唐咨、呂拠(りょきょ)、文欽(ぶんきん)らの遠征軍を魏に送った。
しかし間もなく孫峻は急死してしまい、跡を継いだ孫綝(そんちん)は遠征軍に撤退を命じた。
唐咨らは傲慢で無能な孫綝の命令を拒否すると、滕胤(とういん)を後任の丞相にするよう連名で上奏した。
すると孫綝は滕胤を左遷し前線に送り込んだため、激怒した呂拠は兵を率いて都に攻め上がろうとした。
だが孫綝は先手を打って唐咨、文欽に呂拠の討伐を命じる詔勅を出させ、丁奉の討伐軍を差し向けた。
謀叛人の汚名を着せられた呂拠は自害し、滕胤も殺された。

257年、諸葛誕は反乱を起こすと寿春に籠城し呉に救援を求めた。
唐咨は文欽、朱異とともに援軍に赴いたが、指揮を執る孫綝は無謀な攻撃を命じ、挙句に連敗を喫した朱異を殺し、自身は撤退してしまった。
疑心暗鬼にとらわれた諸葛誕は文欽を殺し、その子の文鴦(ぶんおう)らが魏に亡命すると、司馬師は彼らを厚遇し「かつて呉に寝返った文欽の子ですら許される」と喧伝したため、諸葛誕の配下も雪崩を打って魏に投降していった。
諸葛誕は捕らえられ、孤立した唐咨も魏に降伏した。

司馬昭は諸葛誕・文欽・唐咨を3謀叛人と呼んだが、生き残った唐咨の帰参を許してやり、その配下も取り立てた。呉は寛大な処置を喜び、事を荒立てないために唐咨ら降伏者の家族を罰しなかったという。

262年、司馬昭は唐咨に命じて軍船を建造させ、呉の征伐を企んでいるように見せかけ、油断した蜀を鍾会・鄧艾に強襲させ滅ぼした。
この時、鍾会が蜀の官民に出した文書によると、唐咨は魏で国政に参与していたようであるが、これっきり彼の事績は途絶えてしまい、間もなく没したと思われる。

「演義」では孫綝に処刑されることを恐れ、進んで魏に降伏した。
呉に残された家族は殺されてしまい、その後は鍾会・鄧艾とともに蜀を攻めたという微妙なアレンジが加えられている。

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