忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・周瑜  美周郎

  

周瑜(しゅうゆ)字は公瑾(こうきん)
揚州廬江郡の人(175~210)

~経歴~
「美周郎(びしゅうろう)」と呼ばれるほど容姿端麗で知略に富み、また音楽にも造詣が深く、どんなに酔っている時でも、背後で流れている曲の音律がずれたらすかさず振り返って指摘したという。

周家は揚州の有力豪族で、孫家と親交が深く一族は周瑜の実家で暮らしており、周瑜と孫策は兄弟同然に育った。
孫堅の死後、周家は孫家と同じく袁術(えんじゅつ)の配下となった。しかし194年、孫策が袁術に兵を借り挙兵すると、周瑜は袁術の下で太守を務めていた叔父の助力を得て、兵糧と軍船を集め孫策のもとに駆けつけた。
周瑜の策と孫策の指揮で快進撃をつづけ、あっという間に劉繇(りゅうよう)を破り、孫家は江東の覇権を手にした。
あくまでも袁術の配下として孫策のもとに出向していた周瑜だが、袁術が皇帝を僭称し信望を失うと、その機を逃さず脱出し、孫策のもとに戻った。
200年、孫策が死去すると跡を継いだ孫権に進んで臣下の礼をとったため、他の重臣たちも周瑜にならい、動揺は最小限に収まった。
またこの頃に、曹操に招かれていた魯粛(ろしゅく)を説得して孫権陣営に留まらせてもおり、孫策の死により空中分解の危機に陥っていた孫家を保たせたのは、周瑜と張昭(ちょうしょう)の働きが大である。

208年、曹操が大軍を催して攻め寄せると、孫家の重臣たちはこぞって降伏論を唱えた。
しかし周瑜が「曹操の実際の兵力は見かけほど多くなく、水戦の経験も少ない。疫病も流行している」と勝機を数え上げたため、孫権は戦いを決意し、両軍は赤壁で対峙した。
しかし孫権は大将に周瑜と、父の代からの重臣である程普(ていふ)の二人を据えたため、指揮系統は混乱してしまった。ここでも周瑜が一歩引いて程普を立てたため大事には至らなかったが、呉にはこうした内紛が多く、対する曹操軍は周瑜の予期したとおり疫病に悩まされており、戦線は膠着した。
すると程普と同じく古株の黄蓋が、内紛を逆に利用した偽装投降を提案した。黄蓋は曹操に内通の手紙を送り、水面下の攻防の末に、曹操は黄蓋の寝返りを信じた。
黄蓋は東南の風に乗り船団を率いて近づくと、油断した曹操軍に火を放った。大軍だった曹操軍の船は密集しており、瞬く間に火は燃え移り、大多数の船を失った。
水軍を失った曹操は江陵に曹仁を入れるなど荊州の各地に兵を残し、都へ撤退した。

勢いに乗る周瑜は江陵を包囲したが、曹仁の守りは固く、また孫権が東の徐州方面にも兵を割いたため戦力が足りず苦戦した。
曹仁はのちに関羽と戦った際もわずかな兵で襄陽を守り切ったように籠城戦が得意であり、この時も隙を見ては打って出て、味方が取り残されれば手勢を率いて救出するなど、牛金(ぎゅうきん)ら配下に「将軍は天兵のようだ」と賛嘆されるほどの働きを見せた。
周瑜も城攻めのさなかに矢を受けて重傷を負った。起居もままならないほど傷は重かったが、曹仁がここぞとばかりに反撃に移ると、無理をおして視察に出て、自身の健在を敵味方、双方に見せつけた。
曹仁はこれ以上の抗戦は無理と悟り、江陵を捨てて退却したが、赤壁の戦いからすでに一年以上が経過していた。

劉備との共同作戦で荊州を制圧したことで、周瑜はかねてから温めていた益州の攻略に乗り出した。
しかしその途上、矢傷がたたったのか、病を得て急死した。36歳の若すぎる死であった。
周瑜を失った呉には、もはや益州を攻められるほどの軍才を持った人物はおらず、死の間際、周瑜に後任に指名された魯粛は、劉備に益州を取らせることで、三国鼎立の形を作り、曹操に対抗するのだった。


~周瑜の構想~
推測するに、周瑜は孫権ではなく劉備を盟主とした国を作り上げ、曹操と戦うつもりだったのではなかろうか。
荊州南部の領有権をめぐって、劉備が自ら孫権のもとを訪れた時、周瑜は「財宝や妃を与え、宮殿を造りこのまま劉備を都に留めるべきだ。関羽・張飛は私が手なずけて見せる」と進言した。
この言葉はそのままとらえると、劉備を人質にとっているにしてはあまりに分不相応に扱っているし、なにより劉備を人質にとっておいて、鉄の結束を誇る関羽・張飛を手なずけられるわけがない。
これは「劉備に(曹操に対抗する盟主、つまり皇帝としてふさわしい)財宝や妃を与え、宮殿を」造れということではなかろうか。それならば関羽・張飛を手なずけられると踏んだのも理解できる。
打倒・曹操の旗印として担ぎ上げるならば、対外的には地方豪族に過ぎず、若輩の孫権ではなく、いちおう皇帝の末裔と名乗り、長年にわたり曹操と戦ってきた人望厚い劉備のほうが、よりふさわしいではないか。

不自然な言葉ひとつから邪推しただけのことだが、稀代の戦略家・周瑜ならばそのくらいの構想は持っていたかもしれないし、何よりそう思いたくなるほど、僕は周瑜という人物が大好きである。
周瑜があと20年、せめて10年生き永らえていたら、三国志は大きく様変わりしていたに違いない。

拍手[1回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R