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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・呂範  威風堂々


 
呂範(りょはん)字は子衡(しこう)
豫州汝南郡細陽の人(??~228)
 
呉の重臣。主に指揮官として活躍した。

若い頃から優れた容姿で人目をひいた。郷里に劉(りゅう)氏という裕福な家があり、美しい娘がいた。
呂範が彼女をめとりたいと申し出ると、その母は身分が違うと嫌がったが、父親は「呂範は貧しいままで終わる人物ではない」と喜んで許したという。

のちに戦乱を避けて江東に移り、まだ袁術(えんじゅつ)の下にいた孫策に仕える。
当時は孫策の配下は少なく、呂範と孫河(そんか)の二人とともに雌伏の時を過ごした。
孫策は呂範を奥座敷に迎え入れ、自分の母とともに親しく食事をさせるなど身内として待遇した。

やがて孫策は袁術から借り受けたわずかな兵力を元手に、快進撃を重ねて一大勢力を築き上げた。
しかしあまりに急に兵力が膨れ上がったため、規律が整わず反乱が相次いでいた。
そこで呂範は自分が都督に就任し統率したいと申し出た。孫策はいまさら都督のような下位の職につけられないと渋ったが、呂範はそれを押し切り、着任するやたちまち規律を整えた。

200年、孫策が急死し弟の孫権が19歳の若さで跡を継いだ。
孫権はそれ以前、経理を務めていた呂範に小遣いを無心したが、孫策の許可がなければ与えられず、恨みに思っていた。
一方、周谷(しゅうこく)という者は帳簿をごまかして孫権に金を与えていた。
だが孫権は跡を継ぐと、周谷を遠ざけて呂範を信任したという。

呂範は江夏の黄祖(こうそ)攻めや赤壁の戦いでも一方の指揮官を務めた。
劉備が孫権の妹(孫尚香)との婚姻のため訪れると、呂範や周瑜はそのまま劉備を留めおいて帰さないよう主張したが容れられなかった。
219年、関羽が北上すると孫権は呂蒙と密議をこらし、その背後を襲おうと画策した。
孫権はそれに先立って呂範に会うと、計画を打ち明け「あのとき君の言うとおり劉備を帰さなければ、こんな苦労はせずに済んだだろう。私は出陣するから建業(呉の首都)の守りは任せた」と頼んだ。
孫権は首尾よく関羽を討ち取ると、武昌を新たな都に定め、建業はそのまま呂範に統治させた。

222年、夷陵の戦いで関羽の仇討ちに乗り出した劉備を退けた直後に、魏は三方から大軍で呉を攻めた。
合肥方面には張遼(ちょうりょう)、曹休(そうきゅう)、臧覇(ぞうは)ら二十六軍が押し寄せた。
呂範は水軍で迎え撃ったが、暴風にあおられ数千人が溺れ死んだ。
魏軍も皇帝・曹丕が自ら督戦したものの、やはり暴風で川を渡れず撤退した。

228年、大司馬に昇進したが印綬が届く前に没した。
孫権は遺族に印綬を贈り、のちに建業が首都に戻されると呂範の墓を詣で、親しく子衡と呼びかけて涙したという。

呂範は出自こそ貧しかったが常に威儀を正し堂々としており、陸遜、全琮(ぜんそう)ら貴公子も彼には敬意を払わずにいられなかった。
貧しかったことの反動からか、呂範の住居や衣装は、「山の如し」とうたわれる豪華な軍船を用いた賀斉(がせい)と並ぶほど贅を極めていたが、孫権は忠勤ぶりに免じて目をつむっていたという。

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