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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・呂岱  呉の最長老



呂岱(りょたい)字は定公(ていこう)
広陵郡海陵の人(161~256)

~経歴~
呉の重臣。

故郷で役人をしていたが戦乱(おそらく曹操の徐州大虐殺)を避けて江東に移り、孫家に仕えた。
はじめは地方官を任されたが、孫権が地方行政の意見を求め、各地の地方官を集めたとき、呂岱の受け答えを見て、これぞ我が意を得た人材と思い、中央に呼んだ。
将としてもすぐに頭角を現し、反乱鎮圧で多くの功績をあげた。211年には漢中の張魯(ちょうろ)をおびき寄せようとして進軍し、失敗に終わったものの、帰還の途上に蜀を攻める劉備と会見した記録が残っている。

215年、領土争いをめぐり、呉と荊州を守る関羽の間は一触即発の様相をていした。
孫権は強硬策を取り、呂蒙、呂岱に命じて荊州南部の三郡を攻め落とさせた。
一方で関羽に同調した反乱も相次ぎ、呂岱はその鎮圧に奔走した。劉備も援軍をよこし全面戦争の気配となったが、やがて魯粛(ろしゅく)と関羽が世に言う「単刀赴会」で和解し、荊州南部の三郡は呉に譲られ、呂岱はそれに近い廬陵太守となった。

220年、交州に一大勢力を築く士燮(ししょう)に対する圧力を強めるため、歩隲(ほしつ)の後任として勇名高い呂岱が交州刺史となった。
呂岱は周囲の異民族や反乱軍を平らげ、226年に士燮が亡くなるとさらに南下し、交州を分割して強引な統治を進めた。
士一族が反発しそれを妨害すると、呂岱はすかさず謀叛となじり、あわてて降伏した士一族を残らず処刑し、念願の交州支配を達成した。
その後も呂岱は南下を続け、呉の威光を恐れた遠地の国々の王からも貢ぎ物が届くようになり、南方政策は飛躍的な進歩を遂げた。

231年、呂岱は荊州に戻され潘濬(はんしゅん)とともに武陵蛮の鎮圧にあたった。
潘璋(はんしょう)が亡くなるとその兵を引き継ぎ、前線を守った。
しかし南方で反乱が起きると常に呂岱に討伐が命じられ、孫権からは絶大な信頼を受け、自身の裁量で軍を動かし人事を決めても良いという特権まで与えられた。
事実、南方の情勢が不穏になると、呂岱は中央の許可を待たずに出撃し、孫権はそれを追認して援軍を差し向けたという。
潘濬が亡くなるとさらに荊州の発行する公文書は呂岱が決裁を任され、陸遜と並び防衛にあたった。
陸遜、孫権も亡くなると呂岱は90歳を超えていたが諸葛恪(しょかつかく)とともに後事を託された。

256年、96歳で亡くなる直前まで職務に励んだ。
質素倹約に努めたため老齢でも全く衰えを見せなかったというが、交州に赴任している時にはあまりに質素に暮らし、そして仕事に熱中するあまり残してきた家族を忘れてしまい、何年も仕送りをしなかったので家族は困窮した。
孫権はそれを聞くと、呂岱ではなくその配下を責め、呂岱がまた忘れてもいいように、家族に毎年仕送りをするように手配したという。

「演義」では他の呉の名臣と同じように、一ヶ所にぽつねんと名前が記されるだけである。

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