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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―呉・全琮  名臣、晩節を汚す

  

全琮(ぜんそう)字は子璜(しこう)
呉郡銭唐県の人(196~247)

~経歴~
呉の重臣。
父の全柔(ぜんじゅう)は官途についたが董卓の専横を嫌い故郷に戻り、孫策が蜂起すると従った。
あるとき全柔は息子の全琮に交易を命じ、数千石の米を預けた。だが全琮は貧しい人々に米を分かち与え、船を空にして帰ってきた。父は怒ったが全琮は「空腹に苦しむ人々を見過ごせなかった」と答えたため、父は息子の非凡さを感じた。
当時、中原の人々は戦火を避け南方に多く移住しており、裕福な全琮は家財を投じ彼らを救った。その数は何百戸にもおよび、彼の名は広くとどろいた。孫権政権でも重用され、山越(さんえつ)討伐で名を上げた。
関羽が魏を攻めると、全琮は奇襲作戦を上奏したが、孫権は既に呂蒙と策を練っていたため、作戦の露見を恐れて全琮の案を握りつぶした。
だが首尾よく関羽を討つことに成功すると、先の全琮の案を高く評価し、重職に取り立てた。
その後は魏の侵攻をたびたび防ぎ、ついには孫権の娘・魯班(ろはん)を妻にもらい孫家の姻戚となった。だが全琮はすこしも驕ることなく、誰に対しても丁寧な言葉づかいを心がけ謙虚に努めたため、一族も次々と重職に上った。
しかし地位は人を変えたのか、晩年は孫権の後継者争いに血道をあげ、皇太子の孫和(そんか)ではなく、妻の魯班や次男の全寄(ぜんき)が擁する弟の孫覇(そんは)の肩を持ち、陸遜らと対立。讒言で陸遜や重臣の顧雍(こよう)の孫である顧譚(こたん)らを流罪に追いやった。
だが孫権はのちに二宮(にきゅう)の変と呼ばれた醜い争いを、孫和の廃嫡と孫覇の自害という形で終わらせ、孫覇一派の筆頭だった全寄も連座して自害した。
全琮はその前年に病を得て死んでいた。残された一族は呉での居場所を失い、諸葛誕(しょかつたん)の反乱に乗じ多くが魏に降った。

裴松之は晩節を汚した全琮を「論ずる必要もない」と片づけた。

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