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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――呉・甘寧  鈴が鳴る ヤツが来る



甘寧(かんねい)字は興覇(こうは)
益州巴郡臨江県の人(?~?)

呉の将。
はじめは益州に住み、若い頃から遊侠の徒で、武装させた若者を率いていた。彼らは羽飾りを背負い鈴を携えていたため、人々は鈴の音を聞いただけで甘寧の一派だとわかった。
官吏だろうと脅して歓待させ、従わない者は襲って財産を奪い、罪を犯す者がいれば私刑を行った。
そうして20年余りを過ごしたが、ある時を境に無頼の生活を辞め、学問に励むようになった。

194年、益州牧の劉焉(りゅうえん)が没し、息子の劉璋(りゅうしょう)が跡を継いだ。
長安の都を占拠する李傕(りかく)は、州牧の世襲を認めず、新たな州牧として扈瑁(こぼう)を派遣した。それに呼応し劉璋配下の沈弥(しんや)が反乱したが敗北した。そうして荊州へ逃亡した人物の中に甘寧の名が見える。

甘寧は800人余りの食客を率いていたが、荊州刺史の劉表(りゅうひょう)は無頼漢の彼を軽視し登用しなかった。
甘寧はいずれ劉表も滅びるだろうと見切りをつけ江東に移ろうとしたが、江夏太守の黄祖(こうそ)に道を阻まれ、やむなくその配下についた。だが黄祖も甘寧を歓迎せず、敗走する黄祖を救援し、追撃してきた孫権配下の凌操(りょうそう)を討ち取る大功を立てても、処遇は変わらなかった。
黄祖配下の蘇飛(そひ)は甘寧の資質を見抜き、登用するよう進言していたが、黄祖はかえって甘寧の食客を引き抜きさえした。
蘇飛は甘寧に孫権へ仕官するよう勧め、邾県の長に推挙してやり、ようやく黄祖の下を離れた甘寧は、食客とともに孫権に仕えた。

甘寧はかつて益州に住んでいた経験から、その険阻な地形の優位性を訴え、劉表と黄祖を討ち荊州を制圧し、そこを足掛かりに益州を抑え、中原を支配する曹操に対抗する「天下二分の計」とでも呼ぶべき策を唱えた。
孫権はそれを採り入れ、父の仇でもある黄祖に猛攻を加えて討ち取った。その際に蘇飛も捕虜となったが、甘寧は旧恩ある蘇飛を救うため頭を地面に打ちつけながら涙ながらに助命嘆願した。
蘇飛は解放され、後に関羽のもとで曹操と戦った蘇非(そひ)という将がおり、同一人物と思われる。

その後の甘寧は孫権軍の主力として活躍した。
南郡の戦いでは夷陵を1千の兵で落としたが、すぐに曹仁の率いる5千の兵に包囲されてしまった。
防戦に努めながらも甘寧は平時と変わらず談笑していた。配下を城から抜け出させ周瑜に急を知らせると、周瑜は凌操の子で、甘寧を父の仇と恨む凌統だけを残して救援に駆けつけ、曹仁を撃破した。
結局、凌統とは和解できず、酒宴の席で凌統が剣舞を披露すると、甘寧が双戟を手にそれに加わり、不穏な空気を察した呂蒙が武器を手に割り込み仲裁することさえあった。孫権は彼らの任地を離し、鉢合わせしないよう気を配った。

214年、魏の皖城を攻めると、自ら城壁を乗り越え守将の朱光(しゅこう)を捕らえた。
215年、荊州を制圧する劉備と孫権との間で領土問題が持ち上がり、一触即発の空気となった。
関羽が5千の兵で河の上流を抑えようとする動きを見せると、300の兵を率いていた甘寧は「あと500人くれれば関羽を捕らえてみせる」と魯粛(ろしゅく)に進言し、1千の兵を預けられ夜間に出陣した。
両軍は河を挟んで対峙したが、関羽は渡河を諦め兵を引いた。

同年、孫権は10万の大軍で合肥を攻めたが、防備は万全で陥落させられず撤退した。
守将の張遼は孫権の本陣が手薄なのを見て取ると追撃を掛け、大損害を与えた。この時、甘寧は自ら弓矢で応戦しながら、混乱して沈黙する軍楽隊を鼓舞し、音楽で士気を上げさせどうにか孫権を無事に撤退させた。

216年、濡須口の戦いでは100名の決死隊を集め、魏軍に夜襲を掛けると宣言した。
配下が恐れおののくと「将軍である俺ですら命を賭けるのに、お前はなぜ命を惜しむのだ」と鼓舞し、自ら全員に酒を酌して回った。
甘寧の意気に打たれた決死隊は勇躍し、魏軍に大打撃を与え、一人の戦死者も出さなかった。
孫権は「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる。うまく釣り合っているものだ」と激賞した。

将として頭角を現しながらも甘寧の気質は若い頃と変わらず、気前が良く配下の面倒見は良いが、粗暴で簡単に人を殺めた。
ある時、甘寧の料理人が些細な失敗をして、呂蒙のもとへ逃げ込んだ。呂蒙は命を奪わないと甘寧に誓わせてから返したが、甘寧はすぐさま彼を殺してしまった。
激怒した呂蒙は処罰しようとしたが、甘寧の母が「天下が乱れている折に仲間割れをしている場合ではない」と諌め、甘寧も涙ながらに謝罪してその場は収まった。
孫権の従弟の孫皎(そんこう)とも衝突し、酒席で危うく斬り合いになるところだった。
甘寧は上官だが年下の孫皎には従えないと、呂蒙の指揮下への配属替えを願い出たが、孫権が自ら孫皎に訓戒を与え仲裁した。

没年は不明だが、孫権は大いにその死を惜しみ、兵はやはり粗暴で似た気質の潘璋(はんしょう)が受け継いだ。

「演義」では若い頃は「錦帆賊」と名乗る江賊だったが、長じると粗暴な面は鳴りを潜め、呉屈指の勇将として活躍。
凌統との和解も描かれ、濡須口の戦いで落馬し、楽進(がくしん)に討ち取られかけた彼を甘寧が救って以来、固い親交を結んだ。
一方で夷陵の戦いでは病身を押して出陣するも、沙摩柯(しゃまか)に射殺されるという残念な最期を迎えた。

まったくの余談だが「横山三国志」では皖城の戦いで鉄球を振り回しながら「甘寧一番乗り!」と叫び朱光を瞬殺する勇姿が描かれ、その甘寧の顔をドラミに差し替え「サンダーLOVE!」と叫ぶシュール過ぎるコラ画像がネット上に拡散している。

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