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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――呉・朱桓  呉の関羽雲長



朱桓(しゅかん)字は休穆(きゅうぼく)
呉郡の人(178~239)

呉の将。
きわめてプライドの高い人物で、自分を抜擢した孫権の命令しか聞かず、たびたび同僚・上官と衝突した。
一方で目下の者には優しく、財産は残らず分け与えてしまい、また配下とその家族1万人の顔と名前を全て記憶していたという。

主に反乱鎮圧で活躍し、周泰が没すると後任として濡須の督となった。
223年、曹仁が数万の兵で攻め寄せたが、朱桓のもとには5千の兵しか無かった。しかし朱桓は敵の油断をつき奇襲攻撃を仕掛け、曹仁の子の曹泰(そうたい)を撃破し、敵将の常雕(じょうちょう)を討ち取り王双(おうそう)を捕らえた。

228年、周魴(しゅうほう)が偽装投降により曹休(そうきゅう)を罠にはめ、味方の陣の奥深くへと誘い込んだ。
曹休は孤立したものの10万の兵を率いていたため、そのまま決戦を挑んだが、朱桓や陸遜、全琮(ぜんそう)に挟撃され大敗した。

237年、魏の呂習(りょしゅう)は逆に呉へ偽装投降を仕掛けた。
朱桓や全琮は罠にはまりかけたが、直前で看破し撤退した。魏の李鷹(りよう)は追撃を掛けようとしたが、呉軍に朱桓が加わっているのを知るとその武勇を恐れ取りやめた。

その頃、孫権は胡綜(こそう)を朱桓と全琮のもとに送り監督させていた。
ある時、朱桓と全琮の意見が対立すると、全琮は孫権が胡綜を通じて命令していると言ったため、孫権からの直接の命令しか受けない朱桓を激怒させた。
朱桓の怒りの矛先は胡綜に向かい、陣に赴くと自ら殺そうとしたため、側近は胡綜を逃がして代わりに殺され、それを諌めた朱桓の副官も斬られた。
朱桓は錯乱したと主張して隠遁したが、孫権はこれまでの功績から罪には問わず、息子の朱異(しゅい)に兵を継がせ、後には復職させた。
孫権は復帰する朱桓にじきじきに声を掛け、朱桓は孫権の髭を撫でることを所望したと伝わる。

238年に62歳で没した。
かわいがられた配下の者は嘆き悲しみ、財産がなかったため孫権は葬儀費用の建前で5千石の塩を与えた。

「演義」では血気盛んな性格からか曹仁との戦いの際に27歳の若武者に設定された。(実際は47歳)

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