忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――呉・徐盛  気骨あふれる名将



徐盛(じょせい)字は文嚮(ぶんきょう)
徐州瑯耶郡の人(177~228)

呉の将。(曹操の大虐殺を機に?)故郷を離れて呉郡に移住し、孫権に仕えた。
柴桑県長の時、江夏太守の黄祖(こうそ)の子である黄射(こうしゃ)が数千の兵で攻め寄せたが、徐盛は200足らずの兵で撃退した。
黄射は徐盛を恐れて二度と攻めてこなくなり、徐盛は蕪湖県令に昇進した。
この頃、蒋欽(しょうきん)の留守中にその配下が罪を犯し、徐盛は処刑しようとしたが孫権に止められたため、内心で蒋欽の報復を恐れた。
その後、徐盛は蒋欽の下に付けられ、ついに処罰されると覚悟したが、逆に蒋欽は徐盛を褒め称え重用した。孫権が理由を問うと、蒋欽は私怨で優れた将を処罰するのは誤りだと述べ、孫権はもちろん徐盛も感服した。

217年、濡須口の戦いで徐盛は軍船を率いたが、強風にあおられ敵陣のまっただ中に流れ着いてしまった。
しかし徐盛は周囲の敵に果敢に突撃を仕掛け、勢いを得た味方も次々と敵軍を蹴散らし、徐盛らは天候の回復を待ち悠々と帰還した。

221年、魏へ臣従していた孫権が呉王に任じられた。
魏の使者の邢貞(けいてい)が横暴に振る舞うも、諸将が何も言えずにいる中、徐盛はただ一人進み出ると「我々が劉備ごときを併呑できなかったから、魏ごときに膝を屈することになったのだ。これ以上の恥はない」と号泣した。
邢貞は徐盛の気骨に感嘆し、このような将がいるならば呉が臣従しているのも長くはあるまいと語った。

夷陵の戦い、洞口の戦いでも活躍した。
224年、曹丕が大軍を率いて現れると、徐盛は長江の沿岸に数百里に及ぶハリボテの城壁を造り、偽の陣を築いた。
曹丕は偽装工作を見抜けずに撤退した。

224~229年の間に没した。

「演義」でも史実とほぼ同様の活躍が描かれる。
魏の使者に対する激昂や曹丕への偽装工作も描かれ、曹丕との戦いでは若輩の孫韶(そんしょう)に消極的な作戦を批判され処刑を命じるが、孫権に仲裁され取りやめると、血気にはやって強襲を仕掛ける孫韶を丁奉に援護させ、ともに大戦果を上げる機転も見せている。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R