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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・韓馥  三国一の臆病者



韓馥(かんふく)字は文節(ぶんせつ)
豫州潁川郡の人(??~192以降)

~経歴~
後漢末の群雄。三国一の臆病者。

朝廷に仕えていたが、混乱に乗じて実権を握った董卓により、冀州牧に任じられた。
冀州にほど近い渤海には董卓のもとから出奔した袁紹がいたため、韓馥は董卓の顔色をうかがい、手の者を送り監視させた。
だが袁紹が董卓追討軍の盟主として各地に号令をかけると、韓馥は袁紹と董卓のどちらにつくか迷った。
腹心の劉子恵(りゅうしけい)は、韓馥のふらふらとした態度を諌めるとともに、自分からは動かず、他に決起する者が現れれば同調すればよいと、日和見するよう進言した。
間もなく董卓追討軍に加わる者が続出したため、韓馥もそれに準じたが、積極的に戦おうとはしなかった。

皇帝を擁している董卓に対抗するため、袁紹、韓馥は皇族に連なり名声高い劉虞(りゅうぐ)を新帝として担ぎ出そうとした。
しかし曹操、袁術(えんじゅつ)には反対され、劉虞本人も野心を持たなかったので拒絶され、計画は頓挫した。
やがて追討軍の一員である公孫瓚(こうそんさん)が韓馥を攻撃し、各地に檄文を送り追討軍を結成させた発起人である橋瑁(きょうぼう)が仲間割れで殺され、董卓も洛陽を捨てて長安へと退くと、諸侯は解散した。

袁紹は当時、地盤を持たなかったため常に補給に苦しみ、兵站は韓馥に依存していた。
参謀の逢紀(ほうき)はこの機に韓馥の冀州を奪おうと画策し、軍事的な圧力をかけさせた。
生来、臆病な韓馥はおびえ、すぐにも冀州を譲ろうとしたが、家臣の多くは冀州の軍事力は袁紹を上回るとして抵抗を求めたが、結局降伏してしまった。
ほとんどの者が袁紹に降る中、耿武(こうぶ)と閔純(びんじゅん)だけは袁紹の暗殺を図り、逆に殺された。

韓馥は将軍に任じられたが実権はなく、また旧臣が暗殺を企てたため、常に身の危険を感じており、ついに張邈(ちょうばく)のもとへと逃げ出した。
だがそこに袁紹の使者が訪れ、張邈に耳打ちするのを見ると、韓馥は自分を暗殺するための密談だと思い込み、厠に逃げ込んで自害してしまった。

袁紹は先に韓馥の子が暗殺された際、首謀者を処刑しており、小者である韓馥に警戒心を抱いてはいなかったろう。自害に至ったのは完全に一人相撲だと思われる。

余談だが、韓馥が袁紹に降った頃、配下には魏の名将となる張郃、界橋の戦いで公孫瓚の騎兵隊を破った麹義(きくぎ)、曹操にも才を惜しまれた沮授(そじゅ)がそろっており、さらに大軍師・荀彧(じゅんいく)までが招かれていた。これだけ人材が揃い、広大な冀州の軍事力を盾にすれば、補給に難を抱える袁紹など敵ではなかっただろう。実は当時の韓馥は、最も天下に近い一人だったのではなかろうか。

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