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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・趙忠  十常侍の母



趙忠(ちょうちゅう)字は不明
冀州安平郡の人(??~189)

霊帝(れいてい)に重用され「我が母」とまで呼ばれた宦官。
桓帝(かんてい)の時代から専権をふるい、167年に父の葬儀を上げた際、あまりに華美に過ぎたため冀州刺史の朱穆(しゅぼく)に処罰されたが、趙忠は桓帝に讒言し、朱穆を免職させるほどだった。
やがて派閥争いを勝ち抜き張譲(ちょうじょう)ら「十常侍」と呼ばれる有力宦官の一人に数えられた。(十常侍は通称でメンバーとして12人が挙げられる)

184年、黄巾の乱が起こると張鈞(ちょうきん)、呂強(りょきょう)らは十常侍の専権が乱の理由だと批判したが、趙忠らは表面上はしおらしく官を辞して自ら獄につながれ、家財を売り払って軍費にあてるなどしたため、霊帝は逆に張鈞らを逮捕させ、獄死に追い込んだ。
黄巾討伐で方面軍を任された皇甫嵩(こうほすう)は、趙忠が冀州と都に規定に反する豪華な邸宅を構えていると聞くと、冀州の邸宅を没収させ、賄賂も断った。趙忠はまたも讒言して皇甫嵩を免職に追い込み、後任の車騎将軍の座にも収まった。(だがこれは間もなく返上した)
185年には宮殿が火災に遭ったが、趙忠は集まった修繕費で私腹を肥やしたため、宮殿は再建できなかった。
また名声高い袁紹ははじめ仕官しなかったが、趙忠に警戒されていると知ると叔父は「一族を滅ぼすつもりか」と叱りつけ、袁紹はあわてて仕官したという。

このように傲岸不遜に権力をほしいままにしたが、189年に霊帝が没し劉弁(りゅうべん)が即位すると、その伯父で大将軍の何進(かしん)と十常侍は対立した。
何進は霊帝の母・董(とう)太后とも対立しており、董氏派の蹇碩(けんせき)は趙忠に何進の暗殺を持ちかけたが、土壇場で趙忠は寝返り、蹇碩の企みを密告して処刑させた。
しかし結局は何進も暗殺するに至ると、何進の配下だった袁紹らは報復として宮中に突入し、趙忠ら宦官を皆殺しにした。

趙忠の豪奢な邸宅はそのまま残り、191年には韓馥(かんふく)が冀州の邸宅に、196年には献帝(けんてい)が都の邸宅に居住したという。

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