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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・蔡邕  幻の三国志著者



蔡邕(さいよう)字は伯喈(はくかい)
陳留郡圉県の人(132~192)

~経歴~
後漢末の大学者。蔡文姫(さいぶんき)の父。
儒学の他、算術、天文、音楽など広範な知識を有し、書家としても知られる。

若くして博学かつ孝行で、病床の母を3年にわたり看病し、死後も篤く弔ったため、天がそれに感じ入ったのか、ウサギが軒先で戯れ、庭の樹々は枝をつなげるなど(連理という現象で、夫婦や家族の絆が固いことの象徴とされる)不思議なことが次々と起こり評判を呼んだ。
蔡邕の名は都にも届き、宦官の中常侍らに招かれたが、病と称して引きこもり古文の研究に専念した。だが若き日の曹操の才を見抜いたことでも知られる橋玄(きょうげん)の招きには応じ、都に上った。

当時、儒学の経典は戦乱や秦の始皇帝の焚書坑儒などもあり、多くが散逸し、現在残されている経典は不正確だと議論されていた。
そこで175年、蔡邕は馬日磾(ばじつてい)らとともに検討を重ね、可能な限り正確な経典を作ると、都の学校の門外に高さ1丈(約230センチ)の石碑を46枚立て、それに20万字にも及ぶ経典を刻んだ。都には経典を書き写そうとする人々が行列をなしたといい、現代にもその石碑の一部は伝わっている。

しかし178年、宦官の専横を厳しく非難した蔡邕は、讒言により流罪となった。すぐに大赦を受けたが今度は郷里で宦官の親族と揉め事を起こし、揚州へ亡命し12年もの月日を過ごした。

189年、都を支配した董卓に強引に招かれ、わずか3日の間にとんとん拍子で重職に上がった。だが蔡邕の進言は董卓にほとんど用いられず、再び亡命を考えた。しかし従弟に相談すると「あなたは並外れた容貌で人目を引くし、その顔は知れわたっております。道を歩いているだけで人々が群れ集まってくるのに、どうして亡命できるものでしょう」と言われ断念した。

董卓が呂布、王允(おういん)によって暗殺されると、蔡邕は驚き慨嘆した。大儒家である蔡邕はたとえ暴君であろうとも主君には忠誠を誓っており、当然の反応だったが、王允はそれを見とがめ「逆賊に天誅を下したのにそれを嘆くとは何事だ。お前も逆賊に違いない」と処刑を命じた。
蔡邕は額に罪人であることを示す刺青を入れ、両足を切断する刑で死罪を免じてもらい、歴史書の編纂を続けられるよう嘆願した。これは死罪を宮刑(去勢する刑)に減じてもらい、『史記』を著した司馬遷(しばせん)にならった願いである。
馬日磾ら多くの重臣も減刑を願ったが、王允は「司馬遷を赦したばかりに、時の皇帝は自身を誹謗された。今度は私を蔡邕に誹謗させる気か」と怒り、嘆願を退けた。
のちに王允は思い直して釈放しようとしたが、衰弱した蔡邕は間に合わず獄死してしまった。

蔡邕の死を聞き、涙を流さない儒学者、士大夫はいなかった。北の大学者・鄭玄(じょうげん)は「私は誰とともに世の中を正せばいいのだ」と嘆いたという。
蔡邕は104編もの詩や書物を遺したが、董卓の次に台頭した李傕(りかく)らの乱でほとんどが失われてしまった。盧植(ろしょく)、馬日磾らも相次いで亡くなり、ともに編纂していた歴史書も中絶してしまった。

だが歴史書はのちに楊彪(ようひょう)が後を継いでまとめ上げ、蔡邕の著書は、異民族にさらわれていた娘の蔡文姫が曹操の助けで帰国すると、驚異的な記憶力で彼女が読んでいたものだけは復元された。


~王允の言について~
王允が「私を誹謗させる気か」と言ったことについて、三国志に注をつけた裴松之は「王允の剛直な性格から考えてこんなことを言ったとは思えない」と異議を唱えている。
たしかに王允は黄巾の乱では自ら兵を率いて多大な戦果を上げ、さらに宮中から宦官を一掃しようとし、董卓の暗殺後に李カクら残党が攻め寄せた時も、「幼い皇帝を残して逃げられるものか」と都に居座り、殺されたほどの人物である。
その剛直さと比べれば、たしかに保身を考えた「らしくない」発言ではあるが、いずれにしろ蔡邕を獄死させたことは間違いない。
もし減刑の嘆願を受け入れていれば、当代随一の大学者・蔡邕の手による「漢書」が、さらにもし長寿を得ていれば蔡邕による「三国志」が書かれていたやもしれないのだ。
王允の罪は計り知れないほどに重い。

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