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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・蔡文姫  博覧強記



蔡琰(さいえん)字は文姫(ぶんき)
通称、蔡文姫(さいぶんき)
兗州陳留圉の人(177?~249?)

後漢の大学者・蔡邕(さいよう)の娘。
字の文姫は、司馬昭の諱を避けた後の字で、本来の字は昭姫(しょうき)である。
しかし彼女の伝記は(司馬昭の諱を避けていた)晋代に広まったため、蔡文姫として知られており、本項でもあえて文姫と呼ぶ。

才媛で琴の腕と弁舌、筆に優れた。幼い頃、父が琴を奏でていると二番目の弦が切れてしまった。別室で聴いていた文姫は即座に「第二弦」と言い当てた。驚いた蔡邕がわざと四番目の弦を切ると、それも言い当ててみせた。
父が偶然だろうと言うと文姫は音楽から国の興廃や戦況を悟った故事をいくつも引き、それと比べれば切れた弦を当てることなどたやすいと返し、父を感心させた。
この逸話は中国では教科書に採り入れられ、当時はなかなか学問を受けられなかった女性にも聡明な者がいること、男子はそのような女性に負けぬよう学問に励むように、という教育に用いられた。

はじめ衛仲道(えいちゅうどう)に嫁いだが、すぐに先立たれたため実家へ戻った。
194年頃、董卓の没後、残党の李傕(りかく)らが長安を襲撃した際の動乱に巻き込まれ、匈奴に拉致され王の劉豹(りゅうひょう)の側室となった。
匈奴で12年過ごし二人の子をもうけたが、207年に父と親交のあった曹操が蔡家の血が途絶えるのを惜しみ、財宝と交換で身柄を引き取った。
二人の子は匈奴に残し、別れの際に無念の思いを込め作った詩は現存している。

その後は曹操の勧めで董祀(とうし)に嫁いだ。夫が罪を犯した時、減刑を嘆願するため着の身着のままで曹操のもとへ向かった。
折しも酒宴を催していたが、文姫はその中に進み出ると滔々と夫を弁護した。曹操が居並ぶ諸臣に「蔡邕の子女である」と紹介すると彼らは驚き、身なりは貧しいがその堂々たる態度と弁舌に感じ入り、思わず居住まいを正した。
曹操が「もう刑の執行を命じる令状を出してしまって間に合わない」と意地悪く言うと、文姫は「あなたには一万の馬と兵がいるのに、どうして騎兵一人を出すのを惜しんで、失われようとする命を助けないのか」と訴えた。曹操はその言葉に感心し、減刑の使者を出してやった。
後に曹操は散逸していた蔡邕の蔵書の復元を命じた。文姫は記憶していた400編あまりを自ら清書したが誤字脱字はただの一つもなかったとされる。

その後の事績は不明だが「晋書」には羊衜(ようく)に蔡邕の娘が嫁いだとあり、近年の研究ではこれが文姫のことだと考えられ、没年は249年だという。
一方で1992年に中国人民銀行が発行した記念銀貨は生没年を177-254年としているが根拠は不明である。
文姫の劇的な生涯は後に絵画や戯曲の題材として採られた。
彼女の筆法は後世まで受け継がれ、自ら半生を綴った「胡笳十八拍」は偽作説もあるが、中国十大古典名曲の一つに数えられる。

「演義」には登場せず、創作での影も薄いが「蒼天航路」では姿形こそ出てこないが、蔡邕の著作を受け継いだ王粲(おうさん)と協力させ、著作の復元をさせようと曹操が発案している。
「真・三國無双」では琴を武器に、音波で群がる敵を吹っ飛ばすいかにも無双シリーズらしい勇姿が見られる。

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