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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・王匡  義侠君主



王匡(おうきょう)字は公節(こうせつ)
兗州泰山郡の人(??~??)

~経歴~
後漢末の群雄。

若い頃から物欲がなく、施しを好んだため任侠をもって知られた。
大学者・蔡邕(さいよう)とも親交があり、その縁あってか大将軍の何進(かしん)に仕え、徐州に赴任して軍需物資の補給を担当した。
189年、何進が宦官によって殺され、宦官もまた報復で皆殺しにされると、その混乱に乗じて董卓が台頭し、実権を握った。
王匡は都の騒擾を嫌ったのか職を辞すると、郷里に帰り平民に戻った。しかしその才を買われてすぐに河内の太守に任命された。
王匡は赴任すると、官民の罪過を厳しく探り、罪ある者には賠償として金や穀物を要求し、それに応じないと一族ごと処刑し、威厳を高めた。

190年、袁紹らの呼びかけによって董卓追討軍が結成されると、王匡もそれに応じた。
大半の諸侯は名声目当てで参加しただけで、積極的に戦おうとはしなかったが、曹操、孫堅ら新興勢力は名を上げるために果敢に戦いを挑んだ。
王匡もまた生来の義侠心からか進んで攻撃したものの、董卓軍に迎撃されてほぼ全滅の憂き目にあった。

撤退した王匡は兵を集め再起を図ったが、そこに董卓からの和睦の使者として娘婿の胡母班(こぼはん)が訪れた。
王匡の心は揺れたが、追討軍の盟主である袁紹の命により、やむなく胡母班を殺した。
しかし間もなく、曹操の協力を得た胡母班の遺族によって、王匡も殺されるのだった。

私見だがこの時期、曹操は袁紹の麾下におり、王匡の跡を継ぎ河内太守となるのも、やはり袁紹陣営に属する張楊(ちょうよう)であり、王匡殺害の指示を下したのは袁紹ではなかろうか。
単に史料に残っていないだけかも知れないし、草創期は事情が違うだろうが、曹操はあまり暗殺という手段をとらないし(袁紹は謀略を大いに好んだ)、王匡の配下にいた韓浩(かんこう)がこの後すぐ曹操に仕えていることも、それ(曹操に対してわだかまりがない=暗殺の黒幕ではない)を示唆しているように思える。

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