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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・水鏡先生  万事之善哉善哉



司馬徽(しばき)字は徳操(とくそう)
通称は水鏡(すいきょう)あるいは氷鏡(ひょうきょう)
潁川郡陽翟の人(?~208?)

~経歴~
後漢の名士。
龐徳公(ほうとくこう)は司馬徽の名声を聞き、甥の龐統を会いに行かせた。
ちょうど司馬徽は木に登って桑の葉を採っていた。龐統は車中から「男子たるもの金印紫綬を帯びるほどの身にならねばならない。なぜ才能を隠して糸つむぎなどという女仕事をしているのだ」と問いかけた。
司馬徽は言い返す。「まず車から降りなさい。あなたは直進する速さを知っているだけで、道に迷うことの意義を知らないようだ。古の英雄たちは必ずしも富貴を尊しとはしなかった。たとえ爵位や千の馬車を得たとして、誇れることがあろうか」
龐統は深く感銘を受け、司馬徽も「あなたは南方の人物の中で頂点に立つだろう」と感心し、木に登ったまま二人は夜になるまで語り合った。
司馬徽は龐徳公に面会に行ったが、墓参りに出かけていて不在だった。司馬徽はずかずかと座敷に上がると、龐徳公の妻子を呼びつけ「私が来ることは徐庶(じょしょ)から聞いていたはずだ。どうしてもてなす準備をしていない」と叱り食事を用意させた。やがて龐徳公は帰ってきたが、司馬徽とは初対面のうえ面会の約束もしていなかったため、誰だかわからなかった。
それでも二人は意気投合し、司馬徽は龐徳公の隣に居を構え、親しく付き合った。龐徳公は司馬徽の清廉な性情と人物を正しく見抜く力を高く評価し、水鏡あるいは氷鏡と名づけた。司馬徽も10歳上の龐徳公に兄事した。

司馬徽は荊州に学問所を開き、龐統・徐庶・韓嵩(かんすう)・向朗(しょうろう)・尹黙(いんもく)らに古文を教えた。
荊州を治める劉表(りゅうひょう)はぜひ召し抱えたいと訪れたが、「世間の人々は天下の奇才だというが、あれはただの書生だ」と呆れて帰っていった。劉表の暗愚さを見抜いた司馬徽はわざと無能なふりをしたのだった。
自分を評価してほしいと訪れる人が多かったが、司馬徽は誰に対しても明確な言葉を避け、ただ「よろしい」とだけ言った。妻は「せっかくはるばる会いに来たのにそれじゃあ、会いに来た意味がないでしょう」と苦言をていしたが、司馬徽は「君の言うこともよろしい」と答えた。あるとき知人の子供が亡くなったことを伝えられたときも、つい「よろしい」と言ってしまい、妻に呆れられた。
しかしその眼力はやはり優れており、劉備と会ったときには「伏龍と鳳雛がいる」と諸葛孔明と龐統を紹介した。

あるとき司馬徽の飼っている豚を見た人が「これはいなくなった私の豚だ」と主張したので、司馬徽は豚を与えてしまった。のちに自分の豚が帰ってきたためその人は謝罪に訪れたが、司馬徽は「知っていたが黙っていてすまない」と丁重に詫びた。
また、蚕を育てたいから、すのこを貸してほしいと言われたときには、自分の蚕を捨ててすのこをあげてしまった。「人に物を与えるのは自分に余裕があるときだ。蚕を捨ててまで与えるなんておかしい」と非難されたが、司馬徽は「たかが物ひとつをけちって恥をかく必要があるか」と取り合わなかった。
劉表の死後、跡を継いだ劉琮(りゅうそう)が訪れ、司馬徽が在宅しているか側近に確かめに行かせた。畑を耕していた司馬徽は自分がそうだと答えたが、側近は「お前のようなくたばりぞこないの農奴が司馬君なものか」と罵った。
だが司馬徽が身なりを整えて出てくると、劉琮たちは仰天し土下座して詫びた。司馬徽は「私は自分で畑を耕すような卑しい身分です。そんなことをされては申し訳ない」とまったく責めなかった。

やがて荊州が曹操の手に落ちると、司馬徽もいやおうなく登用された。曹操は重用するつもりだったが、司馬徽はすぐに病死してしまった。
創作などでは老人に描かれることが多いが、40歳にはならなかったと思われる。

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