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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・張温  内弁慶



張温(ちょうおん)字は伯慎(はくしん)
南陽郡穣の人(??~191)

後漢の臣。妻は蔡瑁(さいぼう)の伯母にあたる。
曹操の祖父・曹騰(そうとう)に推挙され世に出た。
184年には司空に上ったが、当時は金銭で地位がやり取りされており、多大な功績のあった張温でさえ司空の座を得るために多額の賄賂を費やしたという。

同年、戦死した黄巾賊の張曼成(ちょうまんせい)の後を受け趙弘(ちょうこう)が宛城に立て籠もると、官軍の朱儁(しゅしゅん)はそれを攻めあぐねた。
朱儁の罷免が検討されたが、張温は古代の名将を例に上げ、彼らでも成果を出すために月日が掛かったことを示し、勝敗によって責任を問うべきと上奏した。これにより朱儁は続投し、首尾よく趙弘の首を挙げた。

さらに同年冬、涼州で大規模な反乱が起き、韓遂(かんすい)、辺章(へんしょう)、宋建(そうけん)らが挙兵した。
朝廷は張温を車騎将軍に任じ討伐軍を委ねた。麾下には董卓や孫堅、陶謙(とうけん)の名が見える。
出陣に先立ち霊帝(れいてい)が閲兵式を行うと、張温は古典的な軍令に従い、拝礼を行わなかった。軍令上は将軍に任じられた者は皇帝に対してさえ拝礼を行わないことになっていたが、それを律儀に守る者は極めて稀だったという。
だが張温は従軍を願い出た張純(ちょうじゅん)を却下し、代わりに公孫瓚(こうそんさん)を取り立てたところ、張純は激怒し、同郷の張挙(ちょうきょ)や烏桓の丘力居(きゅうりききょ)と語り合い、韓遂らをも凌駕する反乱を起こし、戦火を拡大させてしまった。(なお公孫瓚は郷里で烏桓が反乱したため出陣前に帰国しており、張温は二重に失敗している)

また旧知の張玄(ちょうげん)が「韓遂らは宦官の専横に不満を抱き反乱したのだから、宦官を殺せば戦わずとも鎮圧できる」と献策したが、それを聞いた張温は震え出し「自分にはとてもできそうにない」と答えた。張玄は聞き入れてもらえないのならば謀叛人になるだけと自害しようとしたが、張温は自分が黙ってさえいればいいとそれを押しとどめたため、張玄は隠棲した。(ならばなぜこの話が残っているのだろうか。あとwikiではなぜか張玄ではなく董卓が言ったことにされている)

さらに張温の失策は続く。董卓は朝廷から派遣されてきた張温を侮り不遜な態度で命令に従おうとしなかった。見かねた孫堅は董卓を斬り軍規を正すよう進言したが、張温は勇猛な董卓とその配下を恐れ決断できず、この時も「董卓に知られる前に帰りなさい」と孫堅を退けた。また陶謙も孫堅と同意見で、こうした煮え切らない態度に苦言を呈している。

韓遂との戦いではたまたま巨大な彗星が現れたため、肝を潰した韓遂の兵が動揺した隙をつき緒戦を制した。
張温は周慎(しゅうしん)に追撃を命じ、董卓は不利を悟りやめるよう進言したが聞き入れられず、代わりに羌族の対処を命じられた。
周慎は孫堅の兵糧攻めの策を却下し、逆に自らが兵糧攻めに掛けられ敗走した。
董卓も羌族に包囲され窮地に陥ったが、魚を捕るふりをして密かに河を堰き止めると、堰の下を通って撤退し、羌族が追撃すると堰を切って落とし無事に逃げ延びた。張温の率いた6師団のうち5師団が敗走したが、董卓の軍だけが無事で勇名を轟かせた。
董卓はますます増長し、さらに孫堅が張温に自分を斬るよう進言したことも耳に入り、二人を激しく恨んだ。

186年、張温は太尉に転じ、冬には都に召還された。本来は都から外に出ない三公が、外地にいるのは張温が始まりとされる。
代わって討伐軍を任された皇甫嵩(こうほすう)が反乱軍を破り、いったんは鎮圧された。
やがて宦官が一掃され、混乱に乗じて董卓が都の実権を握ると、張温は王允(おういん)とともに董卓の暗殺を企んだ。

しかし191年、星を見て「大臣が刑死する」という上奏が出されたのを利用し、董卓は憎き張温が袁術(えんじゅつ)と内応しているという誣告をでっち上げ、鞭打ちさせて殺してしまった。

「演義」には殺される場面にのみ登場。実際に袁術と内通していたため、宴会中に呂布に裏に連れて行かれ、首を皿に乗せられて戻ってきた。百官は恐怖して食事どころではなかったが董卓は平然と食べ続け、張温の友人に設定された王允はいよいよ我が身に危険が迫ったと腹を決める……というアレンジがされた。

「横山三国志」でも「演義」と同様の場面が描かれるが張温という名前は出てこない。また呂布に連れて行かれる時の彼は台詞こそ怯えているが顔は全く動揺していないというシュールなもので、このアイコンはその瞬間をトレース…ではなくモデルに気軽に描いた、おつまみ武将である。

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