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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・士燮  交州の怪物



士燮(ししょう)字は威彦(いげん)
蒼梧郡広信の人(137~226)

~経歴~
交州を治めた大豪族。

士燮が交趾太守として赴任していた頃の交州は文化の根付かない未開の地で、蛮族がはびこり、漢王室からは流罪先として扱われていた。
刺史の朱符(しゅふ)が蛮族に襲われ殺されると、士燮は自分の一族を沿岸部の郡守とするよう上奏し、南海貿易の利権を手中にし、交州に一大勢力を築き上げた。
士燮は若い頃は都で学問を学び、見識高く慎み深かったため、中央の戦乱を逃れて許靖(きょせい)、劉巴(りゅうは)、程秉(ていへい)ら後に三国の柱石となった多くの逸材が士燮を頼ってきた。
やがて中原に戻っていった彼らのつてを通じ、士燮は中央の情報を集めていたと思われる。
その支配はベトナムにまで及び、士燮はベトナム文化の祖と呼ばれ、ベトナム語を考案したのも士燮だと言われる。

荊州を治める劉表(りゅうひょう)は交州に着目し、呉巨(ごきょ)らを交州に近い郡の太守に任じたが、曹操はそれを阻止せんとして交州刺史として張津(ちょうしん)を派遣した。士燮はすかさず曹操に与する姿勢を示し、将軍位を得た。
しかし張津もまた部下の反乱で殺され、さらに曹操軍は赤壁で敗れて荊州から撤退した。すると士燮は今度は孫権によしみを通じ、息子を人質として差し出した。(このとき士燮は70歳を越えており、その息子は20代の孫権よりも年上だったと思われる)
孫権はいつか交州を我が物としたいと考えていたが、士燮は南海貿易で得た多くの珍品財宝を貢ぎ物とし、また益州南部で権勢をふるっていた雍闓(ようがい)と通じ、益州にたびたび乱を起こさせたため、士燮の重要性は高く、なかなか交州を奪うことはできなかった。
しかも士燮は大変な長寿で、一度は息を引き取ったものの、仙人の董奉(とうほう)に仙薬を飲まされ、息を吹き返すことすらあった。(中国広しと言えども正史に伝を立てられている人物で、甦りが堂々と書かれているのは士燮くらいであろう)

226年、士燮は当時としては驚異的な90歳で大往生した。
士燮の死を待ち、生前から交州攻略の策を着々と練っていた孫権は、すぐさま交州刺史の呂岱(りょたい)に侵攻を命じた。
一代の傑物・士燮亡き交州はたやすく孫権の手に落ちた。

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