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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・劉表  荊州の大人

   
 
劉表(りゅうひょう)字は景升(けいしょう)
山陽郡高平県の人(142~208)

~経歴~
後漢末の群雄の一人。荊州刺史を長くつとめた。

堂々たる体格と風貌を備え儒学にも通じていたため、若い頃から声望高く「八俊」の一人に数え上げられた。
はじめは何進(かしん)に仕えていたが、王叡(おうえい)が孫堅に殺されると後任として荊州刺史となった。
当時の荊州は賊がはびこり群雄割拠していたため、劉表は任地の北部に拠点を構えると、蔡瑁(さいぼう)、蒯越(かいえつ)、蒯良(かいりょう)ら土地の俊英を集め、敵を各個撃破して着実に勢力を強めた。
曹操、袁紹らが都を牛耳る董卓追討の兵を挙げると、劉表もそれに呼応したが、董卓が討たれるとその後に都を占拠した李傕(りかく)らに通じて官位を受けたり、董卓残党の張済(ちょうさい)が逃れてくるとそれを討っておきながら「殺したのは本意ではなかった」と礼を失したことを詫び、残党を受け入れるなど謀略を駆使して力を蓄えた。

荊州に近い南陽を領していた袁術(えんじゅつ)は孫堅に劉表を攻撃させた。
当時最強をうたわれた孫堅軍だったが、劉表は黄祖(こうそ)に防戦を命じると、黄祖は連敗しながらも、孫堅が単騎で突出したところを狙い、討ち取ることに成功した。
はじめは曹操と協力して袁術を南陽から追い出したが、のちに南陽に入った張済の甥である張繡(ちょうしゅう)、さらに袁紹と結び曹操に対抗した。
官渡の戦いの際には曹操の後方を脅かそうとしたが、長沙の張羨(ちょうせん)のもとにいた桓階(かんかい)が大規模な住民の反乱を扇動したため動けなかった。(ちなみに桓階はかつて孫堅に仕えており、孫堅が戦死した際には決死の覚悟で劉表から遺体をもらい受けた人物である)だが張羨が病死すると、すかさず兵を向け荊州南部を制圧するなど、ここでも劉表は抜け目ない。200年に孫策が急死を遂げたが、その背後で劉表が糸を引いていたという意見も根強い。

201年、袁紹が敗れ劉備が頼ってくると、同族のよしみで(といっても劉表は確実に皇室の末裔だが、劉備は自称しているだけである)それを受け入れ、荊州北部の新野に置き、曹操への備えとした。203年には劉備を追うように現れた夏侯惇の軍を、劉備に命じて博望坡で撃退させたが、これは『演義』では諸葛亮の初陣にアレンジされている。
207年、曹操が袁氏の残党を征伐し、遠く遼東まで攻め上がったため、劉備はその隙に都を急襲するよう進言したが、劉表は取り上げなかった。老齢で翌年に死去する劉表にはそこまでの気力はなかったのか、それ以前に荊州を保つことにしか興味はなかったのかも知れない。

208年、劉表は67、または65歳で死去した。重臣で親族でもある蔡瑁らの暗躍で、長男をさしおいて次男の劉琮(りゅうそう)があとを継いだが、劉琮はあっけなく曹操に降った。
だがすんなり降伏したことで劉琮も、その臣下も重く取り立てられており、降伏には劉表の遺命があったのかもしれない。

陳寿は劉表を「優柔不断で覇権を逸した凡人」と袁紹と並べ痛烈に批判しているが、もとより劉表に覇業を成す意志があったとは思えない。
その反面、数年で広大な荊州を制したその手腕や、荊州を守るために打った数々の謀略は並外れており、時に応じて仇敵とも手を結ぶ外交戦略の巧みさには舌を巻くものがある。
広く人材を集め、諸葛亮、龐統、王粲(おうさん)ら無数の俊英が育つ土壌を築いたことも忘れてはならない。荊州は人材の宝庫と呼ばれ、多くの才能が巣立っているが、それは劉表が長年にわたり荊州を戦乱から無縁の地としていたからである。

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