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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・劉協  ラストエンペラー



劉協(りゅうきょう)字は伯和(はくか)
皇帝としては献帝(けんてい)の名で知られる。
洛陽の人(181~234)

~経歴~
後漢の15代皇帝にして最後の皇帝。献帝と呼ばれる。

13代皇帝・霊帝(れいてい)の次男として生まれる。
生まれてすぐ母の王美人(おうびじん)は何(か)皇后によって毒殺され、祖母の董(とう)太后に育てられた。

189年、父の霊帝が没すると、何皇后の子で異母兄の劉弁(りゅうべん)が14代皇帝・少帝(しょうてい)として即位した。
当時の朝廷では何皇后(劉弁の即位後は何太后)の兄で大将軍の何進(かしん)と宦官の間で激しい抗争が繰り広げられていた。やがて何太后の助力を得た宦官が何進を暗殺すると、袁紹らが仇討ちに乗り出し、宦官を一掃した。
宦官の筆頭格だった張譲(ちょうじょう)によって劉協は少帝とともに連れ去られたが、盧植(ろしょく)らが追撃し、観念した張譲は自害したため、無事に保護された。
だが何進が宦官に対抗するために招いた董卓らが、混乱に乗じて都に入ると、一気に実権を握ってしまった。
董卓は聡明で自身の遠縁(董太后は董卓の一族である)でもある劉協ならば傀儡にできると目をつけ、少帝を廃し劉協を15代皇帝・献帝として即位させた。董卓はすぐに少帝と何太后を暗殺し、反抗するものは次々と処刑した。

翌190年、董卓に対抗すべく袁紹、曹操、孫堅らが連合軍を結成し都に迫った。連合軍は名声目当てで集まった諸侯がほとんどで、結束はゆるく積極的に戦う意志もなかったが、孫堅、曹操らはここが名を上げる好機と奮闘したため、董卓は都の洛陽を焼き払い、本拠地に近い長安へと遷都した。
連合軍は自然消滅したがいに争い始めたが、董卓もまた192年に王允(おういん)の計略により、腹心の呂布の手で暗殺された。
その後、王允が実権を手にしたが、1月と経たずに董卓軍の残党・李傕(りかく)、郭汜(かくし)が長安に攻め込み、王允は殺され都は再び混乱のるつぼと化した。
いちおう政権のていを成していた董卓と比べ、李傕らは略奪に明け暮れるばかりで、民衆には餓死者が続出し、生き残った者も親子で共食いを始めるような惨状だった。
やがて李傕と郭汜が仲違いし戦い始めると、劉協は董承(とうじょう)らに守られ長安を脱出した。
李傕らの追撃を受けたが、黄巾賊の残党・李楽(りがく)や異民族の於夫羅(おふら)らに助けを求めるなりふり構わない策でなんとか逃げ切り、洛陽に帰り着いた。
各地に助けを求め、それに呼応した曹操に迎えられ、劉協は許昌に移りそこを新たな都とした。

李傕らは曹操の精鋭に蹴散らされ、ようやく安定を得たが、曹操もまた劉協、つまり後漢王朝を庇護するという大義名分を錦の御旗として用い、傀儡政権を立てるのだった。
200年、劉協は董承らに命じて曹操暗殺を企てたが、たやすく露見し董承らは三族皆殺しとなった。

袁紹を破り華北を平定した曹操は、213年に魏公、216年に魏王となり、着々と後漢王朝の内実を魏(曹)王朝へと塗り替えていった。
214年には伏(ふく)皇后が曹操暗殺を企てたと疑われて殺され、新たな皇后として曹節(そうせつ)ら曹操の娘三人を迎えさせられた。

220年、曹操が死去し跡を継いだ曹丕は、同年のうちに劉協に帝位の禅譲を迫った。
曹丕の妹である曹皇后は玉璽(ぎょくじ 皇帝の用いる印鑑。覇権の象徴)の返還を何度も拒んだが「これ以上反対しては、兄は私や陛下(劉協)に容赦しないでしょう」とあきらめ、「私たちは天に祝福されないのか」と使者に玉璽を投げつけ号泣した。その場にいた者は平伏したまま頭を上げられず、その際に玉璽の角が欠けたという。
もっともこの逸話は前漢王朝の最後にも似たものがあり創作かと思われるが、あからさまな政略結婚だったにも関わらず、曹節と劉協の仲はむつまじく、劉協の退位後も曹節は最期までそばに付き従ったという。
そんな曹節が『演義』では「さっさと兄に帝位を譲りなさい」と冷たく命じる鬼嫁に描かれているのは気の毒な限りである。

劉協は曹丕に帝位を譲り山陽公の身分に落とされ、後漢王朝は滅亡し、歴史上ではこの瞬間から三国時代の幕開けとなる。この帝位の禅譲という形式は、以降の王朝交代の際に踏襲されることとなった。
劉備のもとには劉協が殺されたという誤報(あるいは劉備を帝位につけるためわざと流した偽情報か)が伝わり、劉備は魏に対抗し漢王朝の後継を名乗り皇帝となった。

劉協は隠遁生活を余儀なくされたが、皇帝のみが使える「朕」の一人称を許されたりと、様々な厚遇は受けた。
234年、54歳で没した。偶然にも生没年は諸葛亮孔明と全く同じである。
魏が滅び晋の時代となっても劉協の子孫は山陽公の位にあることを許されたが、309年に匈奴の軍に襲われ皆殺しとなり、漢王朝の嫡流は途絶えた。
のちに東晋の時代に山陽公の末裔を探すよう詔勅が出されたが、見つかったかは定かではない。
また難を逃れて移り住んだのか、はたまた箔をつけるための偽称か定かではないが、4世紀から6世紀の間に日本に移住した渡来人の多くが、山陽公の子孫を名乗ったという。

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