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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・公孫瓚  白馬将軍



公孫瓚(こうそんさん)字は伯珪(はくけい)
幽州遼西郡令支県の人(??~199)

~経歴~
後漢末の群雄。北方に一時は袁紹をも上回る勢力を築いた。

優れた風貌を持ち弁舌さわやかで、騎射のできる精鋭を集め白馬に乗せた一軍を率い「白馬長史」と恐れられた。
有力豪族の子に生まれるも、母の身分が低く冷遇されていたが、太守に見込まれその娘婿となり、援助を受けて盧植(ろしょく)のもとで学んだ。このときの学友には劉備がおり、初期の劉備は公孫瓚のもとに身を寄せている。

数十騎をつれて巡回しているとき、鮮卑族の数百の騎兵隊を見つけるや襲いかかり大戦果を挙げた。それ以来、鮮卑族は公孫瓚を恐れて国境を侵すことはまれになり、公孫瓚は涿郡(劉備の故郷である)の令となった。
186年、涼州で韓遂(かんすい)、馬騰(ばとう 馬超の父)らが反乱を起こし、その兵力は十万にも上った。
張温(ちょうおん)に討伐が命じられたが、副将に公孫瓚を抜擢すると、それに怒り張純(ちょうじゅん)が同郷の張挙(ちょうきょ)、烏丸族の丘力居(きゅうりききょ)らと語らい「安定王」を名乗り反乱を起こした。
公孫瓚は一転して張純らの討伐を命じられたが、反乱は複数の州にまたがる大規模なものとなり、なかなか収まらなかった。
朝廷は皇室の末裔で異民族の間でも人望高い劉虞(りゅうぐ)を幽州牧に据え、烏丸族らに張純の首を差し出すよう交渉させた。公孫瓚は「劉虞の策は手ぬるく、一時の安寧を得るだけであり、根本的な解決にはならない」と異民族も含めて掃討すべきと批判したが、策は当たり張純は逃走したところを部下に斬られ、反乱は治まった。

劉虞はその後も異民族に対して恩賞を与えるなど懐柔策をとったが、公孫瓚はそれを強奪するなど抵抗を続け、劉虞が話し合いの場を設けても仮病を使って断った。
董卓が洛陽の都を焼き払い長安に遷都すると、劉虞は董卓とその追討軍の双方から招かれた。追討軍の盟主である袁紹は劉虞を皇帝に祭り上げようとしたが、劉虞は拒絶した。皇帝・劉協(りゅうきょう)は劉虞の子の劉和(りゅうか)を長安から脱出させ、劉虞の援軍を仰ごうとしたが、劉和は袁術(えんじゅつ)に捕らえられた。袁術は援軍を奪おうと考え、劉和を人質に劉虞に派兵を求めた。(さすが袁術である)
劉虞はやむなく援軍を送ったが、公孫瓚もそれに乗じて袁術によしみを通じようと考え、弟の公孫越(こうそんえつ)に数千の兵を与えて随行させ袁術に協力した。それにより公孫瓚と劉虞の仲はますます険悪になった。
さらに公孫瓚は董卓追討軍に加わるという名目で南下し、冀州の韓馥(かんふく)や青州黄巾軍を襲い、多くの捕虜や軍需物資を奪った。
またこの頃、流浪の劉備や義勇兵を率いる趙雲らが幕下に加わっている。

だが韓馥は袁紹に冀州を譲り、弟の公孫越は袁紹と戦い戦死してしまい、激怒した公孫瓚は袁紹に対して兵を挙げた。勢いを恐れた袁紹は公孫瓚の従弟の公孫範(こうそんはん)を渤海の太守に任じて和解しようとしたが、公孫範はその地位を利用して兵を集めてしまった。(さすが袁紹である)
さらに公孫瓚は自分の息のかかった者を、袁紹を囲むように周囲の刺史や太守に勝手に任じた。公孫瓚は一万もの騎兵隊を集め、袁紹は窮地に陥ったが、異民族の騎兵戦法を熟知する麹義(きくぎ)が界橋で迎え撃ち、劣勢をはね返して大勝利を収めた。

袁紹との戦いは続き、公孫瓚は劉備、陶謙(とうけん)らに背後を襲わせたが、袁紹は曹操と結びそれらを撃破させた。間もなく陶謙は病死し、劉備はその後任となって帰らず、趙雲も兄の喪に服すため去ってしまい、公孫瓚の戦力は著しく減退した。
その機に乗じてか、劉虞は異民族の兵を集め公孫瓚を討とうとした。だがかねてから公孫瓚と親密だった配下の公孫紀(こうそんき)が一報を入れ、公孫瓚は先手を打ってわずかな兵で劉虞に奇襲をかけ、捕縛してしまった。
朝廷や諸侯は助命を嘆願したが、公孫瓚は「劉虞は皇帝を僭称しようとした」と讒言し、「皇帝を名乗ろうとするならば雨くらい降らせるだろう」と無茶なことを言い(中国では貴人は雨とともに訪れるという)、雨が降らなかったため処刑してしまった。

公孫瓚は朝廷の使者の段訓(だんくん)をとどめ置き、劉虞の後任に据えて動きを封じると、まるで自分が皇帝であるかのように振舞った。優秀な役人がいると「優秀な者を取り立てると増長する」と理由をつけては罷免し、凡庸な人物を登用した。また土地の豪商と義兄弟の契りを結び莫大な利益を得た。(武人が身分の低い商人と親しく付き合うのは当時としては異例のことである。公孫瓚が革新的だったと言うよりも、金にがめつくなりふり構わなかったと捉えるべきか)

劉虞の旧臣の鮮于輔(せんうほ)は、異民族との間に太いパイプを持つ閻柔(えんじゅう)を通じ、烏桓・鮮卑の協力を取りつけ数万の兵を集めた。それに袁紹も呼応して共同して攻めると、公孫瓚は大敗し易京の要塞に立てこもった。
易京には交易でたくわえた十年分の兵糧があり、千にも及ぶ城楼が築かれ、鉄壁を誇っていた。公孫瓚は「この兵糧を食い尽くしている間に天下の趨勢をうかがおう」と妻妾と遊興にふける余裕を見せ、攻め寄せた袁紹らのほうが兵糧がもたず撤退することもしばしばだった。
だが孤立した配下に救援を送らず「援軍をあてにしては全力で戦わないだろう」とうそぶいたところ、それを伝え聞いた配下は次々と持ち場を放棄してしまった。
袁紹軍は本丸に迫り、公孫瓚は包囲を破って城外の息子や黒山賊の張燕(ちょうえん)らと合流しようとしたが、伏兵に敗れて城内に逃げ帰った。

199年、袁紹軍は地下道を掘ってついに本丸に到達し、公孫瓚は妻子を殺して城に火を放ち、自害して果てた。
後漢末の混乱に乗じて暴れ回った強欲な武人だったが、腕を頼り、馬を頼り、金を頼り、最後は城を頼って、そのすべてを破られての無惨な死であった。

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