三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人ずつ紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
周慎(しゅうしん)字は不明
涼州武威もしくは漢陽の人(??~??)
後漢の臣。豫州刺史や盪寇将軍を務めた。董卓に重用された周毖(しゅうひ)の父。
185年、涼州で反乱した羌族や韓遂(かんすい)らを討つため、張温(ちょうおん)を総大将に討伐軍が編成された。
周慎、董卓、孫堅らが麾下に配され、突如現れた彗星に韓遂の兵が動揺した隙をつき、討伐軍は大勝した。
張温は勢いに乗って追撃を指示したが、董卓は不利を悟って反対したため、追撃から外され羌族への対処を命じられた。
周慎は韓遂の籠もる城を包囲するも、孫堅の兵糧攻めの献策を退けたところ、逆に韓遂に兵糧攻めを掛けられ敗走した。
討伐軍は6師団のうち5師団が敗走し、董卓の軍だけが無事に撤退した。
その後の周慎の消息は不明だが、都の実権を握った董卓によって周毖が190年に処刑されており、父親の彼が無事だったとは思えない。
王叡(おうえい)字は通耀(つうよう)
徐州琅邪郡臨沂の人(??~189)
後漢の荊州刺史。「二十四孝」の一人として著名な王祥(おうしょう)は甥にあたる。
187年、長沙太守の孫堅とともに区星(おうせい)を討伐した時、孫堅は任地を越えてさらに零陵・桂陽の反乱を鎮圧した。
王叡はこの越権行為に怒り、また身分の低い孫堅を軽んじ、たびたび侮辱したため恨まれていた。
189年、袁紹を盟主に董卓追討軍が結成されると、王叡も参戦を表明し、不仲だった武陵太守の曹寅(そういん)を手始めに討伐するとうそぶいた。
それを知った曹寅は先手を打って王叡を非難する檄文を偽造し、孫堅に王叡の討伐を命じた。
孫堅は(おそらく)偽造と知りながらもこれを勢力拡大の好機と兵を挙げ、王叡の配下の反乱に見せかけて城に迫った。
金品を要求された王叡はおとなしく兵を招き入れたが、その中に孫堅がいるのを認め仰天した。
誅殺されると知った王叡は覚悟を決めると、孫堅の許可を得たのか黄金を溶かして飲み、自害した。
金を飲んで死ぬと死後に裕福になれるという言い伝えを信じたためだったが、御利益あってか彼の一族は晋代に栄華を極め、名家に数えられた。
「演義」では孫堅は善玉に描かれるため、勢力拡大のための上官殺しであるこの逸話は描かれず、王叡は登場しない。
絵師が気軽に描いたおつまみ武将である。
曹騰(そうとう)字は季興(きこう)
豫州沛国譙の人(??~??)
後漢末の宦官。血の繋がりはないが曹操の祖父にあたる。
幼くして頭角を現し、後の順帝である太子の劉保(りゅうほ)の学友に抜擢された。
125年、順帝が即位すると重用され、4代の皇帝に30余年にわたり仕え、ただの一度の失敗も無かったと伝わる。
順帝はもともと太子の座から廃されていたが、宦官の助けにより実権を握っていた太后を破り即位できたことを感謝し、宦官に養子を取り家名を継がせることを認めた。
曹騰もこれにより曹嵩(そうすう)を養子に取り後を継がせた。相続は原則として同姓の者しか認められなかったが(曹嵩はもともと夏侯氏で夏侯惇の叔父にあたるとされる)皇帝に目を掛けられていた曹騰は特例で見逃された。
だがその子である曹操が後漢王朝を傀儡に実権を握り、さらに孫の曹丕によって滅亡に追いやられたのは歴史の皮肉である。
曹騰は孫の曹操と同じく人材好きで、張温(ちょうおん)、張奐(ちょうかん)ら多くの無名の人物を見出したが、見返りを求めず恩に着せることもなかった。
ある時、益州刺史の种暠(ちゅうこう)は曹騰が贈賄を持ちかけられた書状を入手し、弾劾した。
だが時の皇帝は、誘われただけで曹騰が自ら望んだわけではないとしてそれを退けた。
この一件を曹騰は恨まず、かえって种暠の公正さを讃えた。後に种暠は三公の位に上ると、誤解から弾劾し、逆に自分が罷免されてもおかしくなかったところを、むしろ引き立ててくれたことに感謝し、今日の自分があるのは曹騰のおかげであると語ったという。
生没年は不明だが160年前後に没したと思われる。
229年、玄孫の曹叡(そうえい)によって曹騰とその妻の呉氏(ごし)に皇帝・皇后の諡号が贈られた。
中国の長い歴史の中でも、諡号とはいえ宦官でありながら皇帝の座についたのは曹騰ただ一人である。
海賊。
孫堅が17歳の時、父とともに銭唐に赴くと、胡玉ら(銭唐は海に面しており水賊ではなく海賊である)が略奪を働いていた。
周囲の者は見て見ぬふりをしていたが、孫堅は一計を案じ、丘に上がると軍勢を指揮する素振りを見せた。
官軍が現れたと胡玉らは慌てふためいて逃げ出し、孫堅は追撃を掛けて海賊の首を獲った。
この一件により孫堅の名は知れ渡り、役人に抜擢されたという。
「吉川三国志」等では首領が斬られたことに脚色されており名前は出てこないが胡玉が殺されている。
孫堅の逸話は17歳のこの武勇伝が初出で、一緒にいた父の名や職業も記されずと、曹操や劉備と比べ、皇帝(孫権)の父と祖父の逸話としては異例の端折られっぷりである。
孫権が祖父の名や職業を知らなかったとも考えにくく、皇帝の祖父として相応しくない職業(たとえば海賊)だったためあえて省いたとする説もある。
また逸話についても少年離れした知略と度胸は素晴らしいが、その後にわざわざ(近づけば子供だとバレるのに)追撃を掛けているのはいかにも孫堅らしく、長男の孫策ともども単独行動が祟って命を落とした末路が垣間見えるようで面白い。
張純(ちょうじゅん)&張挙(ちょうきょ)ともに字は不明
幽州漁陽郡の人(??~189)
後漢の官吏。張純は中山郡の、張挙は泰山郡の太守と思われる。
187年、涼州で反乱した韓遂(かんすい)の討伐軍が編成された際、采配を振るう張温(ちょうおん)が自分を差し置き公孫瓚(こうそんさん)を抜擢したことを恨み、張純は同郷の張挙を誘い挙兵した。
付近の太守を次々と殺し、張挙は天子(皇帝)を、張純は弥天将軍・安定王を僭称し、そこに烏桓の単于(王)丘力居(きゅうりききょ)も加わり、韓遂らをも上回る大規模な反乱となった。(なお烏桓に対処するため公孫瓚は討伐軍を離れており、張温は二重にしくじっている)
兵力は5万を超え青州・冀州・幽州を股にかけ荒らし回ったが、烏桓に絶大な支持を受ける劉虞(りゅうぐ)が幽州刺史として赴任すると丘力居が離反し、足並みが乱れた所を公孫瓚らによって撃破された。
張純・張挙は妻子を捨てて鮮卑のもとへ逃亡しようとしたが、その途上で張純は部下の王政(おうせい)に裏切られ首を獲られた。
一時は皇帝まで名乗った張挙のその後の消息は不明だが、生き長らえたとは考えにくい。
「演義」では経緯は詳しく描かれないものの史実と同様に反乱。張純が殺されると、張挙も逃げ切れないと悟り自害した。
一連の反乱は僭称した地位では張挙の方が高位なものの、そもそもの首謀者である張純の名を冠して「張純の乱」と一般的には記されることが多い。
東阿の県丞。
黄巾の乱に乗じて反乱し、城の倉庫に火をかけたため、県令と官民は近くの渠丘山に逃げ込んだ。
当時まだ程立(ていりつ)と名乗っていた、後の魏の軍師・程昱(ていいく)は東阿の人で、王度の様子を観察したところ、せっかく手に入れた城には入らず、城外に布陣していた。
そこで程立は付近の豪族の薛房(せつぼう)に「王度には城を守れるだけの兵力は無い。逃げた県令や官兵と合流すれば勝てるだろう」と進言した。
薛房も同意したが官民は恐れてさらに遠くへ逃げようとしたため、程立は数人の兵を渠丘山の山頂へ立たせ旗を振らせると、もうここにも敵が現れたぞと叫びながら城へ向かった。
驚いた官民も程立の後を追って城に入り、県令も合流すると、攻め寄せた王度を撃退し、さらに追撃して潰走させた。
「程昱伝」の序盤も序盤に登場するチョイ役であり、「演義」はもちろんのことなんらかの創作に一度でも出たことがあるのかすら疑わしい。
張温(ちょうおん)字は伯慎(はくしん)
南陽郡穣の人(??~191)
後漢の臣。妻は蔡瑁(さいぼう)の伯母にあたる。
曹操の祖父・曹騰(そうとう)に推挙され世に出た。
184年には司空に上ったが、当時は金銭で地位がやり取りされており、多大な功績のあった張温でさえ司空の座を得るために多額の賄賂を費やしたという。
同年、戦死した黄巾賊の張曼成(ちょうまんせい)の後を受け趙弘(ちょうこう)が宛城に立て籠もると、官軍の朱儁(しゅしゅん)はそれを攻めあぐねた。
朱儁の罷免が検討されたが、張温は古代の名将を例に上げ、彼らでも成果を出すために月日が掛かったことを示し、勝敗によって責任を問うべきと上奏した。これにより朱儁は続投し、首尾よく趙弘の首を挙げた。
さらに同年冬、涼州で大規模な反乱が起き、韓遂(かんすい)、辺章(へんしょう)、宋建(そうけん)らが挙兵した。
朝廷は張温を車騎将軍に任じ討伐軍を委ねた。麾下には董卓や孫堅、陶謙(とうけん)の名が見える。
出陣に先立ち霊帝(れいてい)が閲兵式を行うと、張温は古典的な軍令に従い、拝礼を行わなかった。軍令上は将軍に任じられた者は皇帝に対してさえ拝礼を行わないことになっていたが、それを律儀に守る者は極めて稀だったという。
だが張温は従軍を願い出た張純(ちょうじゅん)を却下し、代わりに公孫瓚(こうそんさん)を取り立てたところ、張純は激怒し、同郷の張挙(ちょうきょ)や烏桓の丘力居(きゅうりききょ)と語り合い、韓遂らをも凌駕する反乱を起こし、戦火を拡大させてしまった。(なお公孫瓚は郷里で烏桓が反乱したため出陣前に帰国しており、張温は二重に失敗している)
また旧知の張玄(ちょうげん)が「韓遂らは宦官の専横に不満を抱き反乱したのだから、宦官を殺せば戦わずとも鎮圧できる」と献策したが、それを聞いた張温は震え出し「自分にはとてもできそうにない」と答えた。張玄は聞き入れてもらえないのならば謀叛人になるだけと自害しようとしたが、張温は自分が黙ってさえいればいいとそれを押しとどめたため、張玄は隠棲した。(ならばなぜこの話が残っているのだろうか。あとwikiではなぜか張玄ではなく董卓が言ったことにされている)
さらに張温の失策は続く。董卓は朝廷から派遣されてきた張温を侮り不遜な態度で命令に従おうとしなかった。見かねた孫堅は董卓を斬り軍規を正すよう進言したが、張温は勇猛な董卓とその配下を恐れ決断できず、この時も「董卓に知られる前に帰りなさい」と孫堅を退けた。また陶謙も孫堅と同意見で、こうした煮え切らない態度に苦言を呈している。
韓遂との戦いではたまたま巨大な彗星が現れたため、肝を潰した韓遂の兵が動揺した隙をつき緒戦を制した。
張温は周慎(しゅうしん)に追撃を命じ、董卓は不利を悟りやめるよう進言したが聞き入れられず、代わりに羌族の対処を命じられた。
周慎は孫堅の兵糧攻めの策を却下し、逆に自らが兵糧攻めに掛けられ敗走した。
董卓も羌族に包囲され窮地に陥ったが、魚を捕るふりをして密かに河を堰き止めると、堰の下を通って撤退し、羌族が追撃すると堰を切って落とし無事に逃げ延びた。張温の率いた6師団のうち5師団が敗走したが、董卓の軍だけが無事で勇名を轟かせた。
董卓はますます増長し、さらに孫堅が張温に自分を斬るよう進言したことも耳に入り、二人を激しく恨んだ。
186年、張温は太尉に転じ、冬には都に召還された。本来は都から外に出ない三公が、外地にいるのは張温が始まりとされる。
代わって討伐軍を任された皇甫嵩(こうほすう)が反乱軍を破り、いったんは鎮圧された。
やがて宦官が一掃され、混乱に乗じて董卓が都の実権を握ると、張温は王允(おういん)とともに董卓の暗殺を企んだ。
しかし191年、星を見て「大臣が刑死する」という上奏が出されたのを利用し、董卓は憎き張温が袁術(えんじゅつ)と内応しているという誣告をでっち上げ、鞭打ちさせて殺してしまった。
「演義」には殺される場面にのみ登場。実際に袁術と内通していたため、宴会中に呂布に裏に連れて行かれ、首を皿に乗せられて戻ってきた。百官は恐怖して食事どころではなかったが董卓は平然と食べ続け、張温の友人に設定された王允はいよいよ我が身に危険が迫ったと腹を決める……というアレンジがされた。
「横山三国志」でも「演義」と同様の場面が描かれるが張温という名前は出てこない。また呂布に連れて行かれる時の彼は台詞こそ怯えているが顔は全く動揺していないというシュールなもので、このアイコンはその瞬間をトレース…ではなくモデルに気軽に描いた、おつまみ武将である。
後漢末の群雄。
もともと漢の官吏だったが184年、黄巾の乱に乗じて涼州で宋建(そうけん)とともに反乱を起こし、月氏(胡族)の北宮伯玉(ほっきゅうはくぎょく)と李文侯(りぶんこう)を将軍に立て、さらに土地の名士である韓遂(かんすい)と辺章(へんしょう)を人質に取り、太守や護羌校尉を殺した。
すると王国らは韓遂と辺章を釈放するとともに、盟主として擁立した。
朝廷は張温(ちょうおん)を総大将に討伐軍を差し向けたが、張純(ちょうじゅん)の従軍したいという願いを却下したところ反乱を招いてしまい、戦火が拡大した。
緒戦は彗星の飛来に驚いた韓遂らの動揺に乗じて官軍が制したが、追撃に失敗し6師団のうち5師団が敗走し、董卓の率いた軍だけが無事に撤退し、勇名を轟かせた。
韓遂は態勢を立て直すと、辺章、北宮伯玉、李文侯を殺して軍勢を奪い取った。(辺章は病没したともされる)
ただしこのあたりの推移は出典によって若干の齟齬があり、王国が加わったのは辺章らの死後とされたり、そもそもの首謀者が北宮伯玉と李文侯だったり、宋建ではなく宋揚(そうよう)という人物が登場したりもする。
「合衆将軍」を名乗った王国・韓遂は再び進撃し、傅燮(ふしょう)の守る漢陽城を包囲した。
傅燮は王国らに味方した羌族に慕われ、王国も元官吏であることから降伏を勧めたが、傅燮は「裏切り者が賊徒のために説教するのか」と激怒すると、突撃を仕掛け討ち死にした。
またこの頃から宋建は別行動を取り、「河首平漢王」と称し、独立国家を立て独自の年号を用いたという。
官軍の馬騰(ばとう)も寝返り勢いを増した反乱軍は新たに王国を盟主に据え、188年に陳倉を攻めると朝廷は皇甫嵩(こうほすう)を討伐に向かわせた。
皇甫嵩は副将の董卓の献策を退け、その逆の手を打ってことごとく奏功し王国軍を打ち破った。
王国はこれにより求心力を失い、反乱軍を追放され、主導権は韓遂・馬騰に移った。
王国のその後の消息は不明だが、韓遂・宋建は30年にわたり反乱を続けていくこととなる。
後漢末の群雄。
184年、黄巾の乱に乗じて涼州で王国(おうこく)とともに反乱を起こし、土地の名士である韓遂(かんすい)と辺章(へんしょう)を人質に取り、太守や護羌校尉を殺した。
すると宋建らは韓遂と辺章を釈放するとともに、盟主として擁立した。
宋建は「河首平漢王」と称し、独立国家を立て独自の年号を用い、丞相以下、百官を任命した。
韓遂、王国とは別行動を取ったと見られ、数年後に辺章が病没し(韓遂による暗殺説もある)、王国は仲間割れの末に追放されている。
次に史書に宋建の名が現れるのは214年のこと。
馬超・韓遂が潼関の戦いで敗北し涼州に逃亡した後、追撃を掛けた夏侯淵は韓遂と宋建の首を挙げた。
宋建は実に30年にわたり反乱を続けたのである。
しかし著名な馬超と絡んだおかげで「演義」にも登場する韓遂と比べ、そもそもの首謀者である宋建はあまりに無名である。
だが当時は反乱者の代表格として知られていたようで、周羣(しゅうぐん)が212年に予言した「近いうちに滅亡する群雄」の中で宋建は張魯(ちょうろ)、劉璋(りゅうしょう)、韓遂と並んで挙げられる。
また傅玄(ふげん)は「反乱者は悲惨な最後を迎える」という例として直近で起こった諸葛誕や毌丘倹(かんきゅうけん)の反乱とともに宋建を挙げており、少なくとも宋建が魏を大いに悩ませていたことは間違いない。
はじめの名は辺允(へんいん)。
184年、黄巾の乱に乗じて涼州で反乱した宋建(そうけん)、王国(おうこく)は、土地の名士である辺允と韓約(かんやく)を人質に取り、太守や護羌校尉を殺した。
すると宋建らは辺允と韓約を釈放するとともに、二人を盟主として擁立した。その際に辺允は辺章に、韓約は韓遂(かんすい)に改名したという。
辺章・韓遂の勢力は拡大し、185年に朝廷ははじめ皇甫嵩(こうほすう)と董卓を討伐に差し向けたが、皇甫嵩は朝廷を牛耳っていた十常侍に恨まれていたため、すぐに罷免された。
代わって張温(ちょうおん)が総大将を命じられたが、張温は討伐軍に加わりたいという張純(ちょうじゅん)の要請を無視して公孫瓚(こうそんさん)を従軍させたため、激怒した張純は同郷の張挙(ちょうきょ)、烏桓王の丘力居(きゅうりききょ)とともに挙兵し、辺章・韓遂の乱に匹敵する大規模な反乱に発展した。
しかし張温の兵力は10万に上り、さらに夜中に巨大な彗星が現れ辺章・韓遂の陣営を昼間のように明るく照らしたため、兵は恐慌をきたし総崩れとなり、さんざんに撃破された。
張温は追撃を命じたが董卓は辺章・韓遂に味方する羌族に包囲され、周慎(しゅうしん)は麾下にいた孫堅の兵糧攻めの献策を却下したところ、逆に兵糧攻めを掛けられ大敗した。
張温は6師団のうち実に5師団を敗走させられる大敗を喫したが、董卓の軍だけは一計を案じて無事に撤退した。
またこの時、たびたび軍令違反を犯す董卓を処罰するよう孫堅は求めたが、その兵力を恐れた張温は聞き入れなかったという。
その後、辺章は病没し韓遂が兵を掌握した。一説には韓遂が辺章を暗殺したともされるが確証はない。韓遂の反乱は周知の通り30年にわたり続いていく。