三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
海賊。
孫堅が17歳の時、父とともに銭唐に赴くと、胡玉ら(銭唐は海に面しており水賊ではなく海賊である)が略奪を働いていた。
周囲の者は見て見ぬふりをしていたが、孫堅は一計を案じ、丘に上がると軍勢を指揮する素振りを見せた。
官軍が現れたと胡玉らは慌てふためいて逃げ出し、孫堅は追撃を掛けて海賊の首を獲った。
この一件により孫堅の名は知れ渡り、役人に抜擢されたという。
「吉川三国志」等では首領が斬られたことに脚色されており名前は出てこないが胡玉が殺されている。
孫堅の逸話は17歳のこの武勇伝が初出で、一緒にいた父の名や職業も記されずと、曹操や劉備と比べ、皇帝(孫権)の父と祖父の逸話としては異例の端折られっぷりである。
孫権が祖父の名や職業を知らなかったとも考えにくく、皇帝の祖父として相応しくない職業(たとえば海賊)だったためあえて省いたとする説もある。
また逸話についても少年離れした知略と度胸は素晴らしいが、その後にわざわざ(近づけば子供だとバレるのに)追撃を掛けているのはいかにも孫堅らしく、長男の孫策ともども単独行動が祟って命を落とした末路が垣間見えるようで面白い。
張純(ちょうじゅん)&張挙(ちょうきょ)ともに字は不明
幽州漁陽郡の人(??~189)
後漢の官吏。張純は中山郡の、張挙は泰山郡の太守と思われる。
187年、涼州で反乱した韓遂(かんすい)の討伐軍が編成された際、采配を振るう張温(ちょうおん)が自分を差し置き公孫瓚(こうそんさん)を抜擢したことを恨み、張純は同郷の張挙を誘い挙兵した。
付近の太守を次々と殺し、張挙は天子(皇帝)を、張純は弥天将軍・安定王を僭称し、そこに烏桓の単于(王)丘力居(きゅうりききょ)も加わり、韓遂らをも上回る大規模な反乱となった。(なお烏桓に対処するため公孫瓚は討伐軍を離れており、張温は二重にしくじっている)
兵力は5万を超え青州・冀州・幽州を股にかけ荒らし回ったが、烏桓に絶大な支持を受ける劉虞(りゅうぐ)が幽州刺史として赴任すると丘力居が離反し、足並みが乱れた所を公孫瓚らによって撃破された。
張純・張挙は妻子を捨てて鮮卑のもとへ逃亡しようとしたが、その途上で張純は部下の王政(おうせい)に裏切られ首を獲られた。
一時は皇帝まで名乗った張挙のその後の消息は不明だが、生き長らえたとは考えにくい。
「演義」では経緯は詳しく描かれないものの史実と同様に反乱。張純が殺されると、張挙も逃げ切れないと悟り自害した。
一連の反乱は僭称した地位では張挙の方が高位なものの、そもそもの首謀者である張純の名を冠して「張純の乱」と一般的には記されることが多い。
東阿の県丞。
黄巾の乱に乗じて反乱し、城の倉庫に火をかけたため、県令と官民は近くの渠丘山に逃げ込んだ。
当時まだ程立(ていりつ)と名乗っていた、後の魏の軍師・程昱(ていいく)は東阿の人で、王度の様子を観察したところ、せっかく手に入れた城には入らず、城外に布陣していた。
そこで程立は付近の豪族の薛房(せつぼう)に「王度には城を守れるだけの兵力は無い。逃げた県令や官兵と合流すれば勝てるだろう」と進言した。
薛房も同意したが官民は恐れてさらに遠くへ逃げようとしたため、程立は数人の兵を渠丘山の山頂へ立たせ旗を振らせると、もうここにも敵が現れたぞと叫びながら城へ向かった。
驚いた官民も程立の後を追って城に入り、県令も合流すると、攻め寄せた王度を撃退し、さらに追撃して潰走させた。
「程昱伝」の序盤も序盤に登場するチョイ役であり、「演義」はもちろんのことなんらかの創作に一度でも出たことがあるのかすら疑わしい。
後漢末の群雄。
184年、黄巾の乱に乗じて涼州で王国(おうこく)とともに反乱を起こし、土地の名士である韓遂(かんすい)と辺章(へんしょう)を人質に取り、太守や護羌校尉を殺した。
すると宋建らは韓遂と辺章を釈放するとともに、盟主として擁立した。
宋建は「河首平漢王」と称し、独立国家を立て独自の年号を用い、丞相以下、百官を任命した。
韓遂、王国とは別行動を取ったと見られ、数年後に辺章が病没し(韓遂による暗殺説もある)、王国は仲間割れの末に追放されている。
次に史書に宋建の名が現れるのは214年のこと。
馬超・韓遂が潼関の戦いで敗北し涼州に逃亡した後、追撃を掛けた夏侯淵は韓遂と宋建の首を挙げた。
宋建は実に30年にわたり反乱を続けたのである。
しかし著名な馬超と絡んだおかげで「演義」にも登場する韓遂と比べ、そもそもの首謀者である宋建はあまりに無名である。
だが当時は反乱者の代表格として知られていたようで、周羣(しゅうぐん)が212年に予言した「近いうちに滅亡する群雄」の中で宋建は張魯(ちょうろ)、劉璋(りゅうしょう)、韓遂と並んで挙げられる。
また傅玄(ふげん)は「反乱者は悲惨な最後を迎える」という例として直近で起こった諸葛誕や毌丘倹(かんきゅうけん)の反乱とともに宋建を挙げており、少なくとも宋建が魏を大いに悩ませていたことは間違いない。
はじめの名は辺允(へんいん)。
184年、黄巾の乱に乗じて涼州で反乱した宋建(そうけん)、王国(おうこく)は、土地の名士である辺允と韓約(かんやく)を人質に取り、太守や護羌校尉を殺した。
すると宋建らは辺允と韓約を釈放するとともに、二人を盟主として擁立した。その際に辺允は辺章に、韓約は韓遂(かんすい)に改名したという。
辺章・韓遂の勢力は拡大し、185年に朝廷ははじめ皇甫嵩(こうほすう)と董卓を討伐に差し向けたが、皇甫嵩は朝廷を牛耳っていた十常侍に恨まれていたため、すぐに罷免された。
代わって張温(ちょうおん)が総大将を命じられたが、張温は討伐軍に加わりたいという張純(ちょうじゅん)の要請を無視して公孫瓚(こうそんさん)を従軍させたため、激怒した張純は同郷の張挙(ちょうきょ)、烏桓王の丘力居(きゅうりききょ)とともに挙兵し、辺章・韓遂の乱に匹敵する大規模な反乱に発展した。
しかし張温の兵力は10万に上り、さらに夜中に巨大な彗星が現れ辺章・韓遂の陣営を昼間のように明るく照らしたため、兵は恐慌をきたし総崩れとなり、さんざんに撃破された。
張温は追撃を命じたが董卓は辺章・韓遂に味方する羌族に包囲され、周慎(しゅうしん)は麾下にいた孫堅の兵糧攻めの献策を却下したところ、逆に兵糧攻めを掛けられ大敗した。
張温は6師団のうち実に5師団を敗走させられる大敗を喫したが、董卓の軍だけは一計を案じて無事に撤退した。
またこの時、たびたび軍令違反を犯す董卓を処罰するよう孫堅は求めたが、その兵力を恐れた張温は聞き入れなかったという。
その後、辺章は病没し韓遂が兵を掌握した。一説には韓遂が辺章を暗殺したともされるが確証はない。韓遂の反乱は周知の通り30年にわたり続いていく。
呂安(りょあん)字は仲悌(ちゅうてい)
出身地不明(??~262)
冀州牧にまで至った呂昭(りょしょう)の次男。魏の末期に酒と薬物に溺れながら清談を繰り広げた「竹林の七賢」と親交の深い人物。
七賢のメンバーである嵆康(けいこう)、向秀(しょうしゅう)と親しく、三人で野山で暮らしていた。
特に嵆康とは親友同士で、ふと相手のことを思い出すとたとえ千里の道を隔てていても、馬車を飛ばして会いに行くほどだった。
ある時、呂安が嵆康の家を訪ねると、兄の嵆喜(けいき)が現れ弟は留守だと応じた。
嵆喜は邸内に招じ入れようとしたが、呂安はそれを断ると門に「鳳」と書いて辞去した。
自分が鳳凰になぞらえられたと思い嵆喜は喜んだが、これは「凡鳥」を組み合わせた暗号であった。
262年(あるいは263年)、妻と密通したとして異母兄の呂巽(りょそん)を告発しようとした。
ところが呂巽は先手を打って弟を親不孝の罪で告発した。嵆康は呂安を弁護したが、かねてから嵆康を陥れようと企んでいた鍾会は、嵆康と呂安を讒言したため、揃って処刑されてしまった。
向秀は命の危険を感じたかそれを機に出仕を始め、魏・晋で重職を歴任した。
彼は「思旧賦」という作品を残しており、これはある寒い日の夕暮れに、昔の住まいを通りがかった時、どこからともなく笛の音が聞こえたため、嵆康や呂安と過ごした在りし日を思い出し、作ったものだという。
劉璋の配下。
貧しい家柄だったが文武両道に優れ昇進を果たした。
劉備が益州に侵攻すると冷苞(れいほう)、鄧賢(とうけん)とともに迎撃するが敗北。
雒城に立て籠もり抗戦し、劉備の軍師を務めた龐統を討ち取ったが、結局は捕らえられた。
劉備は彼の奮戦ぶりに感心し降伏を勧めたが、二君に仕えるつもりはないと拒絶し、やむなく処刑された。
敵ながらその忠誠心に打たれた劉備は、彼を捕らえた金雁橋のそばに埋葬し弔った。
張任の墓は現存するが、近年の発掘調査で後世の物と判明し、晋代の同姓同名の別人説が浮上したという。
「演義」では劉璋配下の中心人物として史実以上に活躍。
劉備を益州に迎え入れることに強硬に反対し、宴の席で龐統が魏延に劉璋を暗殺させようとすると、剣舞に見せかけて割って入りそれを阻止。
伏兵で龐統を射殺させるも最後は張飛に捕らえられ、降伏を拒絶して首を打たれた。
劉璋(りゅうしょう)字は季玉(きぎょく)
荊州江夏郡竟陵の人(162?~219?)
後漢の益州牧。
父の劉焉(りゅうえん)は独立を図り、州牧の地位を復活させ、益州牧として赴任すると半ば独立国を築いた。
朝廷は都に出仕していた末子の劉璋を派遣し暴走を止めようとしたが、劉焉は息子を返さず命令を無視した。
二人の兄と父が相次いで没すると、末子の劉璋が跡を継いだ。
重臣の趙韙(ちょうい)らは劉璋は暗愚だから傀儡にできると踏んで擁立したが、意に反して思い通りにならず、ついに謀叛を起こしたが、返り討ちにあって殺された。
曹操が荊州を制圧すると、使者を送り恭順を示したが、重臣で野心家の張松(ちょうしょう)、他州から流れてきて冷遇されていた法正(ほうせい)、孟達(もうたつ)らは劉璋を追いやり劉備を迎え入れる計画を立てた。
曹操や漢中の張魯(ちょうろ)への対抗策として劉備軍を迎えるよう進言すると、劉璋は同族の彼を信頼し歓迎した。
だが張松の兄である張粛(ちょうしゅく)が弟の内通を密告すると、劉璋は張松を処刑させ、劉備は素早く挙兵し要害を奪った。
鄭度(ていど)は田畑を焼き払い劉備軍を兵糧攻めする焦土作戦を献策したが劉璋は認めず、劉備の軍師を務めた龐統が戦死したものの、百戦錬磨の劉備軍は快進撃で成都に迫り、降伏勧告を下された。
重臣も民も徹底抗戦を主張したが、劉璋はこれ以上民を苦しめたくないとして開城降伏した。
劉璋は次男の劉闡(りゅうせん)とともに荊州の公安に移住したが219年、孫権が関羽を奇襲攻撃により討ち取った際に公安も占拠されたため軍門に下った。
孫権から益州牧に任じられるも間もなく病没した。
次男の劉闡が跡を継ぎ、後に交州刺史も兼任した。なお長男の劉循(りゅうじゅん)は劉備の下に残っており、そのまま仕え続けている。
陳寿は「劉璋は英雄としての才に乏しく、土地や官位を奪われたのは不幸とは言えない」と一蹴した。
「演義」でもほぼ同様の事績が描かれるが、関羽死後に孫権に降ったことには言及されない。
劉伶(りゅうれい)字は伯倫(はくりん)
豫州沛国の人(221~300)
魏の末期に酒と薬物に溺れながら清談を繰り広げた「竹林の七賢」の一人。
身長は六尺(約140cm)程度で容貌も醜くやつれていた。
彼は自分の身体を土や木と同じように考えており、シャベルを持った下男が押す手押し車に乗って、死んだらその場に埋めろと命令していた。
いつも泥酔していたため妻が身体を心配し禁酒を願い出ると、自分の力では不可能だから神にすがろうと、彼は供物として酒と肉を用意させた。
そして「天は劉伶を生み、酒をもって名を成さしめる。一度に一斛(十斗)を飲み、五斗ならほんの酔い醒ましだ。妻の言葉など慎んで聞くことはない」と祝詞を上げるや、供物の酒と肉を平らげた。
泥酔すると服を脱ぎ全裸になる癖があった。苦言を呈されると「私は天地を家、部屋をふんどしだと思っている。君はどうして私のふんどしに入り込んで来るのだ」と返したという。
七賢の中では最も世俗から離れた人物で、政治に関わった記録がない。また七賢の息子はいずれも秀才で知られたが、劉伶の子だけは全く評判が聞こえなかったともいう。
嵆康(けいこう)字は叔夜(しゅくや)
豫州譙国銍県の人(224~262)
魏の末期に酒と薬物に溺れながら清談を繰り広げた「竹林の七賢」の中心的人物。
曹操の曾孫(曹休(そうきゅう)の孫娘)をめとった。
非凡な才能と容貌に恵まれていたが、人付き合いを嫌って野山に交わり老荘思想に没頭した。
琴の腕に優れ音楽論にも長け多くの著作を残している。
友人で七賢の山濤(さんとう)が後任として推薦しようとすると「文選」にも収められた名文の絶交書を送りつけ、山暮らしを続けた。
だが死の直前には息子を山濤に託しており、絶交は文字通りの意味ではなく自らの姿勢表明であったと思われる。
262年(あるいは263年)、親友の呂安(りょあん)が、妻と密通したとして兄の呂巽(りょそん)を告発しようとした。
ところが呂巽は先手を打って弟を親不孝の罪で告発した。嵆康は呂安を弁護したが、かねてから嵆康を陥れようと企んでいた鍾会は、嵆康と呂安を讒言した。
嵆康は山濤の推薦を断ったことと、呂安の弁護を罪状に数えられ揃って処刑された。
その間際には「広陵散」と呼ばれる門外不出の名曲を披露し「広陵散は今、絶えた」と言い遺したとされる。
かつて嵆康は山野で暮らす孫登(そんとう)という道士のもとに3年通い教えを請うていた。
しかし孫登は一言も口を利かず、別れ際に嵆康は「まだ一言もいただけないのでしょうか」と尋ねた。
孫登はおもむろに口を開くと「あなたは多才だが見識に乏しい。今の世では難を免れるのは難しいだろう」と予言を下したという。