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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・梁仲寧(傅燮)  傅燮に斬られる



梁仲寧(りょうちゅうねい)字が仲寧か
出身地不明(??~184)

黄巾賊の頭目。官軍の傅燮(ふしょう)に討たれた。

しか書くことがないので傅燮を調べたら面白い人物だったので以下は傅燮について記す。


傅燮(ふしょう)字は南容(なんよう)
北地郡霊州の人(??~187)

後に魏に仕える傅幹(ふかん)の父。もともとの字は幼起(ようき)だったが孔子の弟子にあやかり南容と改めた。
体格に優れ威厳ある容貌をしており孝廉にも推挙されたが、推挙してくれた太守が没すると官を棄てて喪に服した。

黄巾の乱が起こると皇甫嵩(こうほすう)らとともに討伐軍を率いた。
傅燮はかねてより専横を極める宦官を憎んでおり「天下の災いは外ではなく内から起こります。私は黄巾賊と戦いましたが陛下を悩ませるほどの災いではありません。内にいる佞臣を誅滅してください」と霊帝(れいてい)に上奏した。
宦官の筆頭格だった趙忠(ちょうちゅう)はこれに怒り霊帝に讒言した。霊帝は内心では傅燮の言葉をもっともだと思っていたので讒言には惑わされなかったが、本来なら侯に封じるべき傅燮に都尉の位しか与えられなかった。

韓遂(かんすい)、辺章(へんしょう)が反乱し涼州を攻めると、司徒の崔烈(さいれつ)は朝議で「涼州を切り捨てよ」と主張した。
すると傅燮は憤慨し「司徒を斬って天下を安んじましょう」と言った。
霊帝が驚いて理由を尋ねると「涼州は天下の要衝、国家の垣根です。賊軍に奪われれば天下の憂慮となります」と傅燮は答え、霊帝も納得し涼州に援軍を送らせた。

趙忠は「人々は名声ある傅燮が侯に封ぜられないことに失望しています」と進言され、弟を使者として送り傅燮を侯に封ぜようとした。
だが傅燮は時期を外れた褒美に難色を示し「この私がどうして私的な褒美など望むでしょう」と拒絶した。
趙忠はますます恨みを抱いたが名高い傅燮に危害を加えられず、また諸臣も諫言をはばからない彼を憎んだため、ついに都を出され漢陽太守に左遷された。

もとの漢陽太守はかつて傅燮を推挙した人で、領民は奇縁を喜び彼を歓待した。
傅燮も善政を敷き、勇猛な彼を慕い羌族たちも次々と恭順した。
一方、涼州では韓遂らの反乱が続き、官吏の王国(おうこく)も反乱軍に加わりさらに勢いを増していた。
涼州刺史の耿鄙(こうひ)は大軍を率いてそれを討伐しようとしたが、傅燮は敗北を悟り「あなたは佞臣に政治を任せ領民は教育すら受けられていません。孔子は「教育のない人々を戦わせるのは棄てるのと同じことだ」と言いました。このまま戦えば必ずや内部から変事が起こり、後悔しても取り返しはつきません。兵を出すよりもまずは信賞必罰を明らかにし教育に務めれば、賊軍は内部から勝手に崩壊します。その後に攻撃すれば坐したまま勝利を得られるでしょう」と諫言した。
耿鄙は聞き入れず進軍したが、はたして謀叛が起こり耿鄙は殺され、戦わずして討伐軍は崩壊した。

反乱軍は兵を進め、傅燮の守る漢陽城を包囲した。
羌族も反乱軍に加わっていたが、傅燮を惜しみ土下座して降伏するよう懇願した。
しかし剛直な傅燮が任地を放棄するはずもなく、それを察した13歳の傅幹は父に「天下が混乱したのは父上が受け入れられなかったからです。どうか羌族の言葉を容れ、郷里に帰って天下を清める仕事を始めてください」と願い出た。
だが傅燮はその言葉の終わらぬうちに息子を怒鳴りつけ「お前も私が死を決意していることを知っているだろう。殷の紂王は暴虐だったが、旧臣の伯夷は殷を滅ぼした周の粟を食べずに餓死した。霊帝は紂王ほど暴虐ではなく、私は伯夷に劣るものではない。漢に仕えながらそれを裏切れるものか。私が死んでもお前には才智があるのだから今後は努力せよ」とさとした。
傅幹は返す言葉もなく、周囲の者も落涙した。

反乱軍の王国も「勝負はすでについた。天下はもはや漢の物ではない。私の下で将軍にならないか」と申し出たが、傅燮は「裏切り者が賊徒のために説教するのか」と激怒すると、突撃を仕掛け討ち死にした。
死後、傅燮はようやく侯に封ぜられ壮節侯と諡された。

傅幹はその後、馬騰(ばとう)に仕え官渡の戦いでは曹操に味方させた。
後に魏に仕え、劉備が益州を攻めると無謀だという意見が大勢を占めるなか勝利を予見したり、曹操が孫権を攻めようとすると「兵を出すよりも恩徳をもって懐柔すべきだ」と父に似た言葉で諫言するなど、常にその判断は正しかった。
孫の傅玄(ふげん)もまた剛侯と諡されるほど剛直な人物で「晋書」に伝を立てられている。

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