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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―その他・袁紹  名族



袁紹(えんしょう)字は本初(ほんしょ)
豫州汝南郡汝陽県の人(?~202)

~経歴~
後漢末の群雄。4代にわたって三公を輩出した名門に生まれる。

体格には恵まれなかったが威厳ある風貌で、名家の出でありながら謙虚に振舞ったため、曹操、許攸(きょゆう)ら誰からも慕われた。
早くに父を亡くし叔父の袁隗(えんかい)らに育てられた。
成人してから母を亡くすと3年の喪に服し、それが明けるとさらに父の喪にも服したため孝行を讃えられた。
その後は招きに応じず若くして隠遁し、名声の高い人物とのみ交際した。
従弟または異母弟とされる袁術(えんじゅつ)と声望を競い合い、激しくいがみ合った。当時の人々は袁紹か袁術のどちらかが大出世を遂げると考え、その両方とよしみを通じたという。
朝廷を牛耳っていた宦官らは、袁紹・袁術を危険視していたが、袁紹は出仕に応じなかったため、袁隗は「一族を滅ぼすつもりか」と叱りつけた。袁紹は重い腰を上げて都に出て、順調に出世を重ねた。

189年、霊帝(れいてい)が崩御すると、それを機に大将軍の何進(かしん)は袁紹とともに宦官の一掃を図った。袁紹は地方から董卓ら有力諸侯を集め、武力をたてに宦官を脅迫したが、逆に恨みを買って何進は暗殺された。
袁紹はその報復として宦官を皆殺しにしたが、混乱に乗じて董卓が台頭し、政権を握られてしまった。
董卓と袁紹は敵対し、董卓が皇帝の交代を建議すると、それに反対して逃亡した。
はじめ董卓は賞金を賭けて行方を追わせたが、名門袁家の勢力が結集することを恐れ、官位をちらつかせてなだめようとした。
だが袁紹は橋瑁(きょうぼう)の檄文に応じて兵を挙げた諸侯による、董卓追討軍の盟主となったため、激昂した董卓は都にいた袁隗ら袁氏の一門を皆殺しにした。

しかし追討軍に名を連ねた諸侯は大半が名声目当てで、袁紹にも積極的に戦う意志はなかった。
打開策として劉虞(りゅうぐ)を新たに皇帝として迎え、対抗しようとしたが、曹操や袁術に反対されて立ち消えとなり、やがて追討軍も自然分解してしまった。

諸侯は勢力争いを始め、袁紹も袁術と暗闘を繰り広げた。
董卓のもとにいた献帝(けんてい)が劉虞に助けを求めると、袁術はその兵を奪い、袁紹は袁術の背後に位置する荊州の劉表(りゅうひょう)と同盟し挟撃の体勢をとった。
さらに袁紹は韓馥(かんふく)を懐柔して冀州を譲り受け、地盤を固めると、田豊(でんほう)、沮授(そじゅ)、麹義(きくぎ)、張楊(ちょうよう)ら人材を集めた。
だが袁術との小競り合いのさなかに、袁術に味方していた公孫瓚(こうそんさん)の弟・公孫越(こうそんえつ)が戦死すると、激怒した公孫瓚は南下して袁紹に戦いを挑んだ。
公孫瓚は異民族の戦法を取り入れた騎兵隊を率い、非常に勇猛だったが、異民族の騎兵戦術を熟知した麹義が、ちょうど日本の長篠の戦いのように盾と強弩を武器に迎え撃ち、大勝を収めた。

都で董卓が暗殺され、残党に追われた呂布が落ち延びてくると、いったんは配下に繰り入れた。
呂布は数百の兵で数万の敵を破る活躍を見せたが、かえってその武勇を恐れた袁紹は、暗殺しようとしたため、呂布は袁紹のもとを去った。
曹操の盟友・鮑信(ほうしん)は、勢いに乗る袁紹が「第二の董卓になりつつある」と警戒し、その頃は袁紹の傘下にいた曹操に自立を促し、対抗馬となるよう推したという。

その後の袁紹は、北では公孫瓚の侵攻を防ぎ、兗州で蜂起した黄巾賊には劉岱(りゅうたい)、曹操を向かわせ、青州では孔融(こうゆう)らと戦うなど勢力拡大・維持に力を注いだ。
袁術の傘下にいた孫堅が劉表との戦いで戦死すると、袁紹はそれを好機と曹操、劉表とともに三方から攻め寄せ、南陽から袁術を追い出すことに成功した。
さらに公孫瓚が劉虞を処刑し、その旧臣が烏丸族を味方につけて反乱すると、すかさず北上して公孫瓚を大破し、本拠地の易京に追い込んだ。
十年分の兵糧を備蓄した易京の守りは鉄壁だったが、袁紹は焦らず数年がかりで包囲を続け、公孫瓚自身の驕慢から動揺が生じると、地下道を掘り進めてついに陥落させた。

袁紹が北方の覇権を手にした頃、南では曹操が献帝を迎え入れ、大きく勢力を伸ばしていた。
揚州に逃れていた袁術は、暴政と皇帝を僭称したことから支持を失い、国を放棄して袁紹を頼ろうとしたが、曹操に道を阻まれて死去した。
袁術討伐を口実に徐州に帰った劉備が独立すると、田豊はこれを機に曹操との決戦を提案したが、袁紹は幼い息子の病気を理由に却下したため、田豊は大いに怒り、袁紹はそれを不快に思った。
孤立した劉備は曹操に撃破され、袁紹のもとに逃れた。息子の病気も癒えた袁紹はようやく開戦を決意し、
200年、ついに袁紹と曹操は官渡で対峙した。
だが重臣の間で意見が対立し、田豊や沮授は持久戦を、審配(しんぱい)や郭図(かくと)は速戦を主張し、袁紹は速戦を採択した。
強硬に反対した田豊は投獄され、沮授は兵権を取り上げられ、戦いの前から著しく戦力は下がった。

緒戦で顔良(がんりょう)、文醜(ぶんしゅう)が討ち取られつまずいたものの、四方に敵を抱え戦力を結集できない曹操軍に対し、兵力で勝る袁紹軍は次第に優位に立った。
さらに曹操軍の背後の汝南で黄巾賊の劉辟(りゅうへき)が蜂起したため、袁紹は劉備を送り込んで支援させ、挟撃の体勢に持ち込んだ。
曹操軍は兵糧が枯渇し、内通者も続出し、さすがの曹操も一時は退却を考えた。
しかし袁紹のもとで不遇をかこっていた許攸(きょゆう)が寝返り、烏巣に兵糧基地があることを密告した。
曹操は兵の大半を割いて烏巣を急襲し、それに対し袁紹は兵を二つに分け、烏巣の救援と、手薄になった曹操の本陣攻撃に向かわせた。
だが半端に兵を分けたことが誤りで、烏巣は焼き払われ守っていた淳于瓊も討たれ、本陣も落とせず、それどころか本陣を攻撃した張郃、高覧(こうらん)はそのまま曹操に降ってしまった。
一気に形勢を逆転された袁紹は冀州に撤退し、敗戦の苦悩からか202年に死去した。

官渡の敗北から2年ありながら、袁紹は長子の袁譚(えんたん)、寵愛していた三男の袁尚(えんしょう)のどちらとも後継者を決められずに亡くなったため、その死後に袁氏は袁譚派と袁尚派の二つに分かれて骨肉の争いを繰り広げた。
その隙を突いた曹操は、5年あまりで袁氏の広大な領地をことごとく平らげたのである。

陳寿は袁紹に実に的確な評を残している。
「袁紹の威容は堂々として、名声は天下に轟いていた。しかし外面は寛大に振る舞いながら内面は猜疑心が強く、謀略を好みながら決断力に欠けていた。
優れた人材がいても用いることができず、忠告を聞いても実行できなかった。
長子(袁譚)を廃して庶子(袁尚)を跡継ぎにしようと考え、道理を捨てて個人の感情を優先した。
その死後に子孫が互いに相争い、領地を失ったのは当然である」

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