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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――その他・呂布  三国最強の男

    

呂布(りょふ)字は奉先(ほうせん)
并州五原郡九原県祁の人(?~198)

三国最強の男。
勇猛で知られはじめは并州刺史の丁原(ていげん)に仕えた。
189年、宦官の一掃を企む大将軍の何進(かしん)は、丁原や董卓ら強大な軍権を持つ地方官を呼び寄せ宦官に対抗しようとしたが、先手を打たれ暗殺されてしまった。
董卓は呂布を寝返らせ丁原を殺させ、軍勢も奪い取ると混乱に乗じて都の実権を握った。
董卓は呂布と父子の契りを結び、身辺警護をさせたため、誰も手出しできなかった。

190年、袁紹が連合軍を結成して挙兵し、曹操もそれに応じたが呂布の軍に敗れた。
翌191年、連合軍の孫堅が攻め寄せると、董卓は胡軫(こしん)を総大将、呂布を副将に任じて迎撃させた。だが傲慢な胡軫は諸将から恨まれており、内心では負ければいいと思われていた。
呂布もその一人で、偽情報を与えてわざと胡軫を敗走させ、配下の華雄(かゆう)も戦死したため戦況は不利に陥り、董卓は洛陽を捨て長安に遷都した。

192年、王允(おういん)は呂布を懐柔して味方に引き込むと、董卓を暗殺させた。
裏切りの理由は些細な事で董卓に手戟を投げつけられ死にかけたこと、董卓の侍女(貂蝉のモデルとされる)と密通しており発覚を恐れたこと、胡軫の敗走の罪を問われ権力が衰えるのを危うんだこと、などが挙げられる。
だが董卓の残党である李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが賈詡の献策で一致団結して攻め寄せると、防ぎ切れずに王允は殺され、呂布も都を追われた。董卓暗殺からわずか60日後とされ、逃亡時には董卓の首を持ち去ったともいう。

袁紹を頼ると、ちょうど黒山賊の張燕(ちょうえん)と戦っていたため、呂布は攻撃を命じられた。
張燕は精鋭1万と数千の軍馬を率いていたが、呂布はわずか数十騎で日に3~4度も突撃を仕掛けてはさんざんに打ち破り、数十日で黒山賊を撃退した。愛馬の赤兎馬とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞賛されたが、その絶大な武勇を袁紹は恐れ、また呂布の配下が略奪を働いたため、ついに暗殺を命じた。
なお臧洪(ぞうこう)は「兵の貸与を申し出ただけで略奪はしていない」と弁護し、「後漢書」も略奪は呂布の指示ではなく配下の暴走と記している。

呂布は暗殺を察知して難を逃れ、以降は張楊(ちょうよう)、張邈(ちょうばく)のもとを転々とした。
張邈は曹操と互いの身に何かあったら遺された家族を養おうと約束していたほど懇意だったが、呂布を迎え入れたことで袁紹の恨みを買い、袁紹の旧友の曹操に命を狙われるのではと疑心暗鬼に陥った。
それを弟の張超(ちょうちょう)や陳宮(ちんきゅう)が焚きつけ、呂布とともに反旗を翻らせた。
曹操は大軍を率いて徐州に遠征しており、呂布は夏侯惇を捕らえるなどがら空きの兗州のほとんどを支配下に置いたが、留守を預かる荀彧(じゅんいく)や程昱(ていいく)らの守る三城だけは落とせなかった。
夏侯惇も韓浩(かんこう)によって奪回され、曹操の遠征軍も帰還すると劣勢に陥り、それでも曹操軍を連破したものの、干魃と蝗害が重なり戦闘を継続できず、張邈・張超と袂を分かち徐州の劉備のもとへ落ち延びていった。

呂布は劉備と親しく酒を酌み交わし彼を弟と呼んだが、袁術(えんじゅつ)と戦う隙を突いて徐州を乗っ取った。
帰る場所を失った劉備はやむなく呂布に降伏し、刺史の座を譲った。
袁術が紀霊(きれい)に命じて3万の兵で劉備を攻撃させると、呂布は調停に乗り出した。遠く離れたところに戟を立たせ、酒に酔った状態で矢を射て、命中したら兵を引くよう提案した。
紀霊は不可能だと思い、失敗すれば公然と劉備を攻められると考え同意したが、呂布は見事に命中させた。紀霊も劉備も感嘆し呂布と酒を酌み交わすと紀霊は約束通り撤退したとされるが、非常に創作臭い話であり、そもそも紀霊は3万もの兵を率いるような身分にないし、呂布は結局、劉備を攻撃し追放している。

袁術は息子と呂布の娘の婚姻を持ちかけたが、呂布はその使者を捕らえて曹操のもとに送り殺させた。
激怒した袁術は張勲(ちょうくん)に数万の兵で攻めさせたが、呂布配下の陳珪(ちんけい)が韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)を寝返らせ大勝した。
陳珪は曹操と内通して、袁術との婚姻にも反対しており、呂布と袁術を争わせ戦力を削る目論見だったと思われる。
またこの頃に「陥陣営」の異名を取るほど勇猛な高順(こうじゅん)の諫言を煙たがり、呂布は彼から軍権を奪った。
だがいざ戦が始まると高順の戦力は欠かせず、兵を返して指揮させたが、高順はその不遇な扱いを恨まなかったとされる。

198年、ついに曹操が呂布の討伐に乗り出した。陳宮は自分が外に布陣し呂布と連携して戦う策を出したが、呂布は曹操の旧友である陳宮を疑い反対した。なお異説では陳宮はかつて呂布の暗殺を企み露見するも、証拠不十分で罰されていない過去がある。
曹操は荀彧・郭嘉らの献策により呂布の籠もる下邳城を水攻めした。やがて侯成(こうせい)らが反乱を起こして陳宮を捕らえ、呂布はやむなく降伏した。呂布も侯成らに捕らえられたとも、配下に自分を捕縛して曹操に降るよう命じたが、拒絶されともに縄についたとも伝わる。

呂布は引見した曹操に縄を緩めるよう願い出たが「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と曹操は応じなかった。
呂布は「あなたが悩みとしていたのは私一人。私が降伏したなら天下に悩みはありますまい。あなたが歩兵を、私が騎兵を率いれば天下の平定は容易です」と共闘を持ちかけた。
しかし劉備が過去に呂布が董卓や丁原を裏切ったことを忠告すると、曹操は処刑を決断した。呂布は「こいつ(劉備)こそ一番信用ならない」と毒づき、処刑された。
同じく捕らえられた高順も殺され、陳宮は曹操の誘いを断り、遺族の世話を頼んで自ら処刑を望んだという。

陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中にあった。彼のごとき人物が歴史上、破滅しなかった試しはない」と評している。

「演義」をはじめ創作ではその勇猛さを脚色され、三國無双の武人として描かれる。
虎牢関の戦いでは作中最強クラスの関羽・張飛についでに劉備を加えた三人を相手に互角に戦い、無敵の強さを誇った。
一方で脳筋ぶりは加速し、なかば衝動的に裏切りを繰り返し、最期も籠城中に自分だけ豪勢な食事を摂り、侯成を面罵して恨みを買って捕縛されている。

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